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白天狗の道  作者: 隠れ鬼
第二章 深山の書道家と熊騒動
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第三節

 目当ての文具屋は、里の大きな通りとは離れた、人通りの少ない小路にあった。

 目立つ風貌と体質を持ったシラフィーにとっては、こうした場所にある店のほうが入りやすい。


「ごめんください」


「いらっしゃい……おや、あんたか」


 店の奥で安楽椅子に腰掛けていた店主が、広げた新聞から顔を上げる。


「久しぶりじゃないか。前にあんたが来たのは半年前か? 一年前か?」


「さあ。でも、お元気そうで良かったです」


「あんたもな。相変わらず美人だ」


「おや、お上手」


 世辞を笑顔で受け流しつつ、シラフィーは棚に置かれた商品に目を向ける。

 紙や木、墨と黒鉛、インクに消しゴム。古い店舗に微かにただよう独特の匂い。

 書道家で愛書家の海空ほどではないにせよ、シラフィーはこの店の雰囲気が好きだった。


「えぇと、これと……これかな」


 海空がいつも使っている紙と帳面はちゃんと覚えていた。シラフィーにはどれも同じように見えるが、海空はこういう物に意外とこだわる。

 間違いのないよう確認してから、商品を手に店主の元へ向かう。


「これ、お願いします」


「なんだ。旅行記でも書くのか?」


「私が使うんじゃないですよ。友人に頼まれたんです」


「ああ、あの山奥の娘さんか。元気にしてたかい?」


「ええ、いつもと変わりなく」


「そりゃ良かった。昨日山で物騒な事があったばかりだからな。少し気になってたんだよ」


「物騒な事?」


「ああ。なんだ、知らなかったのか?」


「ええ、まったく。私が山に入った時は何もなかったと思うんですけど……」


 首を傾げるシラフィー。


「話を聞かせてくれませんか?」


「いや、俺も詳しい事を知ってるわけじゃないんだがな。なんでも山に熊が出て、人を襲ったとかで」


「熊?!」


 予想外の話に、思わず素っ頓狂な声が上がる。

 店主に食いつくように身を乗り出しながらシラフィーは尋ねる。


「この辺の山で熊が出たなんて話、聞いたこともないですよ」


「お、おう。俺だって初耳さ。しかし現に見たって言う狩人がいるんだよ。しかもそいつは山でケガまでこさえて帰ってきた」


「ケガ? それは本当に熊に襲われたケガですか? 熊が出たのは山のどの辺り? その人の見間違いって可能性はないんですか?」


「落ち着け、落ち着け。いっぺんに聞かれても答え切れねぇよ」


 どうどう、とシラフィーを押しとどめ、店主はやれやれと息を吐いた。


「狩人のケガは、熊かどうかは分からねぇが、少なくとも獣に襲われたようなキズだったらしい。里に戻ってきた時はそうとう錯乱してたようだから、何かの見間違いって線もなくはねぇな」


 ふぅむ、と顎鬚を撫でながら、店主は自らも伝え聞いた噂話を思い返す。


「そいつがどの辺で熊を見たのかは知らんよ。俺だって本人に話を聞いたわけじゃないからな」


「なら、その方は今どちらに? 教えてくれませんか」


「構わんが……話を聞ける状態かどうかは分からんぞ」


「と、言うと?」


 状態、という言葉に、シラフィーは首をかしげる。

 まったく気味の悪い話だが、と店主は前置いてから話を続けた。


「その狩人な、どうも今朝から寝込んでいるらしいのさ。山で熊に出会った、その翌朝からな」



「それで、会いにいってみたんですか? その、熊を見たという狩人と」


「うん。本人と話はできかったけど、近所の人から詳しい話は聞けたよ」


 山奥の庵に戻ってきたシラフィーは、里で聞いた話を語っていた。

 新品の帳面を開いて、海空は彼女の話を書き留める。


「その狩人の方はご病気だったのでしょう? よく話が聞けましたね」


「こっちから聞かなくても、向こうからどんどん話してくれたよ。里では"熊の祟りだ"って話題になってるみたい」


 里の人々の、少々の恐れと多分な好奇心に満ちた話しぶりを思い出す。


「話によると、狩人さんが"熊"と会ったのは昨日の夕暮れ。場所は彼がいつも狩りをしている辺り。狩りの最中に突然襲われたそうだよ」


「それは妙な話ですね」


 首を傾げる海空。


「野生の獣が、出会いがしらの人間をいきなり襲うでしょうか? よほど飢えていたのなら分かりますが……」


「今は食べ物に困るような季節でもないしね。獣の習性としてはちょっとおかしいかな」


 シラフィーは頷く。


「で、話を続けるとね。その狩人さんはなんとか里までは帰ってこれたんだけど、夜になってから急に体調が悪くなったらしくてね。最初は吐き気と腹痛を訴える程度だったのが、そのうち下痢や痙攣を起こすようになったって」


 これは、狩人の家族から聞いた話だ。里にも小さいながら施療院があるが、そこの医者や薬師に診せても病気の原因は分からなかったらしい。

 それが医者も匙を投げた奇病だとか、熊の祟りだとかという噂を余計に助長しているようだ。


「まぁ確かに、何も知らない人には祟りのように思えるのかもしれないけど……私たちなら、何を最初に思い浮かべる?」


「なるほど。そういうことですか」


「そういうことですとも」


 おどけた風に混ぜ返しながら、シラフィーは頷く。


「ということで、海空先生の知恵袋を貸してもらいたいんだけど」


「簡単に言ってくれますね……けど、人の命が関わっているのなら、見てみぬ振りもできませんか」


 海空はふぅ、と溜息を吐いて、部屋の隅に置かれた本棚に手を伸ばす。

 すうっと本の背をなぞる少女の指先は、一冊の帳面の前でぴたりと止まった。

 本棚から抜き出されたその帳面の表紙には、"日誌・春"とだけ書かれていた。


「なにか心当たりがあった?」


「ええ。今年の春、近くの里から挨拶に来られた同族から聞いた話です」


 もう一冊、別の本棚から大判の菌類図鑑を取り出す。

 よどみない手つきでぱらぱらとページを捲ると、海空はシラフィーの前にそれを広げた。

 図鑑に描かれていたのは、しわの寄った赤褐色の傘を持つ、奇妙な形のキノコだった。


「シャグマアミガサタケの娘、シャグマ・エスクレンタ。毒を持つキノコの娘……"熊の祟り"の正体は、彼女かもしれません」

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