第一節
緑に覆われた山の奥深くに、木々の狭間に隠れるようにして建つ一軒の小さな庵があった。
麓の里の人間たちも滅多に近付こうとしない地の、そもそも知る者さえ少ない隠れ家である。
そこで、一人のキノコの娘が静かに暮らしていた。
庵の中は静謐な空気で満ちている。
小さく古びてはいるものの、屋内はきちんと掃除が行き届いており、綺麗に保たれている。
柔らかな木漏れ日が戸口の隙間や、窓や、あるいは壁の隙間から差し込んできて、ほのかに明るい。
庵の中はいくつかの部屋があり、その中で最も広い畳張りの部屋で、彼女は書の道に没頭していた。
激しくぼさついた灰青の髪に、青緑の瞳。
髪と同色の着物には袖以外の部分に縦線の模様が入り、首周りがタートルネックになった奇妙な形状をしていた。
きちんと正座の形で揃えられた足元の周りには、仏の僧侶が羽織るような黄色い袈裟が落ちている。
娘の手には三鈷の装飾が尾部についた筆があり、視線の先には足の短い机と、黒い墨と硯、それに真っ白な紙がある。
娘はそっと筆を硯に付けてから、黒く染まった毛先をゆっくりと紙の上に走らせる。
すっと背筋を伸ばしたまま姿勢を崩さずに、真剣な表情で一字一字丁寧にしたためていくその振る舞いは、どこか高貴な印象があった。
青みを帯びた黒い線が、紙の上に見事な字を記していく。
人間の書道家に見せたとしても、十分に相手を唸らせる出来であろう。
「……ふむ」
しかし書き上げた字は本人にとっては満足いく出来ではなかったらしく、娘は筆を上げると微かに眉根を寄せた。
紙を新しいものに交換し、墨もすり直す。そしてまた、同じ字を自分が納得するまで何度も繰り返し書き直す。
このように彼女は春夏秋冬のほとんどの時間を、この場所で書と向かい合う事に費やしていた。
ここでは時間はいくらでもあり、誰かに邪魔をされることもない。ひたすらに何かに打ち込むには最高の環境だった。
毎日毎日、彼女はここで書道を続けている。
書いたものを誰かに見せるでもなく、書道を生活の糧にしているわけでもない。
彼女は書道が好きで、好きだから続けているだけだった。
澄んだ山の空気と、雨露を凌げる場所。それに書道の道具さえあれば、彼女は十分に幸せだった。
彼女は今日も、いつもと同じように書道を楽しんでいた。
彼女は今日も、いつもと同じ日が続くと思っていた。
だが――何事にも、変化というものは突然、やってくる。
「……?」
その"気配"に彼女が気付いたのは、太陽がちょうど空の頂点に達した頃だった。
外から吹き込んでくるそよ風の中に、いつもと違うものが混ざっている。
自分のものではない、しかし自分と同類の誰かの胞子だ。
「これは……」
覚えがある。これは、前にも会ったことのある気配だ。
先に胞子を送ってよこしたのも、恐らくはこれから顔を出すという挨拶のつもりなのだろう。
灰青の娘は筆を置くと、畳の上に座ったままじっと耳を澄ます。
木の葉のそよぐ音に混ざって、微かな足音が聞こえてきた。
その足音はゆっくりと――待つ方が焦れてくるような、本当にゆっくりとした歩調でこちらに近付いてくると、やがて庵の前で止まる。
そして、がらりと戸が開く音がして、その次に誰かが庵の中に入ってくる音が聞こえる。戸口から庵の奥に向けて放たれた声も。
「お邪魔するよ。海空、いる?」
「……あの。せめて戸口で待っててほしいんですけど、シラフィーさん」
灰青の娘――筆山 海空は、困ったような顔で声のした方を振り返る。
そこには、白いコートを着た娘が、黄土色のブーツと帽子を脱いで、今まさに玄関に上がろうとしているところだった。
抗議の響きを持った海空の言葉を軽く聞き流しつつ、訪問者――シラフィーはそのまますたすたと海空のいる部屋までやってきた。
「相変わらず無用心な家だね。鍵くらい付けたほうがいいよ?」
「……そうですね。鍵をかけておけば、不審者が勝手に上がりこむこともなかったかもしれませんし」
「ひどい言われようだね」
「その格好で言いますか……?」
屋内でもコートとマフラーを外そうとしないシラフィーに、海空は胡乱な視線を向ける。
今は春も終わりにさしかかった季節で、日によっては夏が一足早くやって来たかと思うほどに暑い時もある。それでも厚着のまま汗一つかかないシラフィーが、海空には不思議でならない。
当のシラフィーは平然とした表情のまま床に腰を下ろす。白い粉がぱらぱらと彼女の髪や衣服から散るのを見た海空の視線がさらに厳しくなる。
「畳が……」
「ああ、ごめん。後で掃除するよ」
「シラフィーさんが掃除しても、その間にますます粉が散るんですけど……」
「こればかりは体質だから、仕方ないんだよ」
「はぁ……」
溜息を吐く海空。対するシラフィーはさっぱり悪びれることなく笑っている。
だが、シラフィーがこれだけ悪びれず遠慮しない相手というのも、実は珍しい。
家主に招かれても普段なら躊躇する彼女が、自分から勝手に上がりこむ家など、ここくらいのものだろう。
それを何だかんだと言いつつ受け入れている海空にしても、そう。こんな山奥で人との接触を避けて暮らしている彼女が、こうも歯に衣着せぬ物言いのできる相手も少ない。
二人のキノコの娘の関係は、どちらにとっても"腐れ縁"と呼ぶのが正しいだろう。
海空はそっと机の上の書道具をシラフィーから遠ざけた。
「こっちには粉、飛ばさないでくださいね……」
「分かってるよ。書道の邪魔をしたら本気で怒るものね、海空」
「分かってるなら、いいですけど……それで、今日は何の御用ですか?」
「ん、特に用はないけど、近くまで来たから様子を見に行こうと思って」
「またですか……」
もう一つ、溜息。
「迷惑だったかな?」
「いえ……でも、それだけのためにわざわざこんな何も無い所まで来なくても……」
「海空がいるじゃない」
「そんな事言っても、何も出ませんよ……?」
そう言いながらも、海空は立ち上がると台所へと向かう。以前里に下りた時、買っておいた茶葉はまだ残っていただろうかと考えながら。
海空がお湯を沸かしている間、シラフィーは背負っていた鞄の中身を机の上に出していく。
「そうだ、これお土産。ここに来る前の里でもらった食料だけど。どうせ、大した物食べてないんでしょ?」
「余計なお世話です……けど、もらっておきます。生臭物はありませんよね?」
「肉も魚もないから安心してよ。仏教徒なのは格好だけのくせに、そういうところはこだわるんだね」
「……単に嫌いなだけです」
机の前に落ちたままになっている黄色の袈裟を見て、茶化すシラフィー。
それに答えながら海空は急須に茶葉とお湯を入れ、盆の上に用意した二人分の湯飲みにその中身を注いだ。
湯気と共に立ち上る香りを確かめて「よし」と小さく頷くと、畳部屋まで慎重にゆっくりと盆を運ぶ。
「粗茶、ですけど……あっ」
だが、机に盆を置く前に、娘の爪先が畳の縁に引っかかった。
バランスを崩した海空の体は前へと倒れていき、持っていた盆と湯飲みが宙を舞う。
放物線を描く湯飲みの一つが、すっかり油断していたシラフィーの元まで飛来する。
「あ」
間の抜けた声が上がった次の瞬間、シラフィーの脳天に湯飲みが直撃する。
同時にばたん、と音を立てて、海空が畳の上で盛大にすっ転んだ。
「あうっ」
顔と体の前面をしたたかに打ちつける灰青の娘。
そのまま数秒ほどぴくりとも動かなくなったが、次第に痛みが引いてくると涙目で顔を上げた。
「うう、またやってしまいました……あ」
「……みそらさん?」
顔を上げた先には、頭に湯飲みを乗せたまま笑顔を浮かべるシラフィーがいた。
髪の毛の先からぽたぽたとお茶の雫が落ち、白い衣服にシミを作っている。
それを拭いもせずに、にこにこととても良い笑顔のままシラフィーは海空を見下ろしていた。
「私、前にお邪魔した時も、その前の時も、あなたにお茶をかけられた気がするんだけど」
「ご、ごめんなさい……」
「もしかしてこれは"さっさと帰れ"っていうサインだったのかな。客にお茶漬けを勧める話は聞いた事があるけど、客の頭にお茶をかける作法は始めて聞いたよ」
「わざとじゃないんです……!?」
慌てて弁解しながら起き上がろうとする海空。
しかし立ち上がる際に着物の裾を踏ん付けて、また転ぶ。
「きゃうっ」
べしん、とさっきよりも少し痛そうな音が部屋に響いた。
ぷるぷる小刻みに震えたまま起き上がらない海空を見て、シラフィーは苦笑する。
「そういうところも前と一緒だね……変わりないみたいで、安心したよ」
「うぅぅぅぅ~……」
灰青の娘が抗議のような呻き声を上げる。
大丈夫? と肩をすくめながらも、シラフィーは友人を助け起こしにかかった。




