第七節
「はー、疲れた……」
「本当です……」
シラフィーと海空、二人の娘の力の抜けた声が重なる。
シラフィーが海空の庵を訪れた日から、ちょうど一週間。
里を騒がせた"熊騒動"の噂も、ようやく収まりはじめていた。
「けど、良かったですね。シャグマさん、素直に帰ってくれて」
「まさか"お風呂に入れると大人しくなる"なんてね……」
あの短気だったシャグマが、お湯に放り込んだだけであんなにご機嫌になるとは思わなかった。
ああいうのをまさに"毒気が抜けた"と言うのだろう。風呂から出てきたシャグマはこう言った。
『……殴ったりして、悪かったよ。……あと、ありがと』
風呂でのぼせたのか、やけに顔が赤かったが。
キノコの娘の中には不思議な生態を持つ者がいるんだなと、シラフィーは自分のことを棚に上げてそう思う。
「教えてくれたコニカさんとモリーユさんには感謝しないといけませんね」
海空も深く頷きながら応える。あの二人のキノコの娘が来てくれなければ、事態はもっとこじれていただろう。
怪我の手当てをした後も不満げに暴れるシャグマを宥めすかし、お風呂に入れると良い、それも熱いのがいいという貴重な情報をくれたのは彼女たちだ。
そもそも、過去に海空と出会ったのが、海空がシャグマアミガサタケの娘を知るきっかけだったのだから。
聞けば、彼女たちは長い付き合いのある友人同士らしいのだが、その彼女たちでもシャグマの癇癪には時折手を焼かされるらしい。ケンカして棲み処を飛び出してしまったシャグマを追いかけてこの山にやってきたのが、シラフィーがシャグマを捕まえた翌々日の朝のことだ。
あと半日でも遅かったら、イライラを募らせたシャグマによって海空の庵は倒壊していたかもしれない。
「"春のアミガサ三人娘"だっけ? 個性的な三人組だったよね」
「ですね。似てない性格の三人だからこそ、馬が合うのかもしれません」
穏やかで気分屋なアミガサタケの娘、モリーユ・エスクレンタ。
姉御肌でせっかちなトガリアミガサタケの娘、モリーユ・コニカ。
タイプの違う二人だが、シャグマも含めて仲は良いらしい。役どころが上手くかみ合っているのだろう。
無事に再会してからの彼女たちのやりとりは、まるで姉妹のようだった。
シラフィーもコニカやモリーユとは馬が合い、別れるまでに色々な話をした。自分の知らない土地の話や、他のキノコの娘の話を聞けるのは、シラフィーにとっては貴重な体験だ。
「今度、彼女たちにお茶に誘われたんだけど。海空も来る?」
「遠慮しておきます。しばらく外には出たくないですから……」
楽しげに語るシラフィーに比べて、海空のテンションは低かった。ここ数日、里と庵を頻繁に行き来していたのだから、疲れるのも当然だろうが。
彼女の今回の仕事量はシラフィーの比ではない。里の人々に事情を説明し、シャグマの毒を受けた狩人の家族に治療法を伝え、今回の件は"不運な事故だった"ということにして穏便に事を収めるため、普段は引き篭もりがちな彼女が奔走する羽目になったのだ。
意外なことに、麓の人間の間で海空は隠れた人望がある。過去にも里で問題が起こった時、成り行きで彼女が助言を行った事があったらしい。
シラフィーはその当時の事を知らないが、今回の一件でも里での諸事を滞りなく済ませられたことから、彼女の慕われようがうかがえる。
「私はただ、静かに書を嗜んでいたいだけなのに……」
そう言って当の本人は迷惑だとばかりに溜息を吐くが、結局はなんやかんやで人が好いのだろうとシラフィーは思う。
海空がこの山に庵を構え、書道の道具や生活必需品を得るために里の人々と細々と交流するようになってから長い年月になる。彼女なりにこの土地への愛着もあるのだろう。
そんな友人のことを、シラフィーは少しだけ羨ましいと思った。
「私、しばらく家から出ませんから。人の多い場所には当分行きませんから。日がな一日書を嗜む生活に私は戻るんです」
引っ込み思案で、しかし賢く優しい灰青のキノコの娘は、もう知らないとばかりに天を仰いだ。
「でも、それだとまた紙がなくならない?」
「シラフィーさん、買ってきてください」
「当たり前のように友達を使いっ走りにするのはやめようよ、海空」
「いいじゃないですか。"急ぐ旅でもないから"があなたの口癖でしょう?」
「口癖にしたつもりはないんだけど……まぁいいか」
宿代の一環として受け入れることにしようと、シラフィーは頷く。
「けど、もう少しゆっくりさせてよ。あー、いいお湯」
ちゃぷんと肩まで湯に浸かる。
山から湧き出した温水は少し熱いが、少女の身体を芯まで温めてくれる。
ほっと気の緩んだ顔を見せるシラフィーの向かいでは、海空も同じように温泉に浸かっていた。
ここは海空の庵の裏手にある、里の人々も知らない秘湯である。
「自分の家に温泉があるって、贅沢だよねぇ」
「実は、ここに居を構えることにしたのはこれが目当てだったのも、少しはあります」
「あ、やっぱり」
くすりとシラフィーは笑う。キノコの娘も女の子だ。自由にお湯を使えて身体を洗える環境があるなら、放ってはおかない。
特に、旅先で水に困ることもあるシラフィーには痛いほどその気持ちはよく分かる。
「本当はシラフィーさんには使わせたくないんですけど。お湯が汚れるので」
「あ、ひどい。海空までそんな意地悪を言う」
まさにそれが理由で、他所では水場や浴場を使いづらいというのに。
お湯の中に落ちていく白い粉をいまいましそうににらみながら、シラフィーは鼻の下まで湯に浸かって、拗ねたようにぶくぶくと息を吹く。
そのどこか子供っぽい仕草に、今度は海空がくすりと笑みを浮かべる番だった。
「冗談ですよ。お風呂くらいならいくら使ってくれても構いません。そんなに入りたがったのは意外でしたけど」
「いや、それはそうだよ。久しぶりのお風呂だもの」
「しばらくここのお風呂はシャグマさんの貸し切り状態でしたものね」
湯に浸かると毒気が抜け、機嫌が良くなるシャグマだったが、それには一つだけ問題があった。
抜けた毒気が湯の中に溶け出して、誰にも使えない状態になってしまうのだ。
残り湯はもちろんのこと、湯気を吸うだけでも毒に中るというその危険性から、シャグマが去った後もしばらくの間、この温泉は使わないようにしていたのだ。
温泉からシャグマの気配が完全に消え、もう安全だろうと判断できたのが今日のこと。シラフィーと海空にとっては久方ぶりにゆっくりできる入浴だった。
「次にここに来るのはいつになるか分からないし。入れる時に満喫しておかないとね」
「……別に、シラフィーさんならいつ来ていただいても……」
「ん、なに海空、何か言った?」
「え、いえ、何でもありません」
「んー、怪しいね。えいっ」
「ひゃっ?!」
すいー、とお湯の中を泳ぐように近付いてきたシラフィーが、海空の後ろに回りこんでくすぐる。
油断していた海空の素っ頓狂な声と共に、ばしゃんと湯が跳ねた。
「んー、相変わらず細いね。ちゃんと食べてる?」
「し、シラフィーさんには関係ないですっ」
「友達のことだもの、心配くらいするよ。海空って普段から書道以外には無頓着そうだし」
「や、ちょっと、もう……!」
じたじたと海空が暴れると、くすくすと笑いながらシラフィーは手を離した。
からかい混じりに告げた言い訳は冗談半分、本気半分といったところだろう。
まったくもう、と唇を尖らせながら、海空は温泉のふちに背中を預ける。
シラフィーも、その隣に並んでもたれかかった。
「……今回は、ありがとうございました」
「お互い様、だよ」
「シラフィーさんは、危険かもしれない役目を自分から引き受けてくれました」
「私じゃ里の人たちは話を聞いてくれなかっただろうし、少しくらい危ない事には慣れてるからね。適材適所ってやつだよ」
「けど……」
「最後にはこうして丸く収まったんだから、これで良かったんだよ。ね?」
「……はい」
海空は頷く。
不意に温泉へと吹き込んだ風が、立ち込める湯気を吹き飛ばした。
「……あ、一番星」
晴れた空を見上げて、シラフィーが呟く。
墨のように黒く染まった空の中天に、宝石のように輝く光があった。
海空も星を見つめ、暫しの間、二人の間には温かな沈黙が降りた。
「……シラフィーさん。よければもう少し、ここにいませんか? 何のおもてなしも、できませんけど」
「そうだね。それもいいかな」
やがて静かに口を開いた海空の言葉に、シラフィーは微笑みながら頷いた。
「急ぐ旅でもないから、ね」
第二章・終