第六節
暗くなった山中に、もうもうと土煙が上がる。
ほとんど見えなくなった日差しと相まって、その場の視界はほぼゼロとなる。
舞い上がった土埃や木の葉を鬱陶しそうに払いのけながら、煙の向こうに動くものはないかと、シャグマはじっと目を凝らした。
(ちょっと、やりすぎたか……?)
フルパワーで暴れて少しは溜飲が下がったのか、後悔――と呼ぶには弱い程度のバツの悪さがシャグマの中に生まれる。
怒りが引いて冷静になると、傷の痛みと身体の重さも嫌でも実感することになる。ここまでする必要はなかったか……という思いが頭をもたげてくる。
(……いや、やっぱりあいつが悪い)
人が休んでいるところに、妙なちょっかいをかけてきたのはあいつだ。そう考えて自分を納得させる。
一人でいたい時に邪魔されるのは嫌いだ。初対面で馴れ馴れしいやつも、邪魔だと言って引かないやつも。
……殴りかかられながら、不安そうな顔で相手のことを心配するやつも。
(ちっ。あいつはどうなった……?)
これ以上ちょっかいをかけられると面倒だ。あいつがどうなったところで知った事じゃないが、ちゃんと確認しておいたほうが自分のためだろう。そう、自分のためだ。
そう頭の中で繰り返しつつ、シャグマは自分が木を放り投げた方向に向かう。
「おーい、どうした。もう終わりか?」
返事はない。
付近を歩き回るシャグマの視界に、地面に横たわった大木の幹が入ってきた。
「逃げたのか? まぁ、あたしはそれでいいんだけど、な……」
シャグマはその傍らに、白い影を見た。
少し小さいが、人と同じくらいの大きさの。幹の下敷きになって身動きひとつしない、真っ白な何かを。
「え、まさか……避けられなかったのか?」
自分がどんなに殴っても蹴っても、のらりくらりと避け続けていた相手だ。怒りに任せて投げつけてみた物も、内心では当たらないだろうと思っていた。どうせ無事だろうと思っていた。
しかし、それなら相手はどうして返事をしてこない?ぴくりとも動かないあれは何だ?
「まさか……まさかだよな」
ここまでするつもりはなかった……とは言えない。しかし我に返ってみると、先ほどまでとは違う不快感が胸の中を渦巻く。
あの狩人と、今日の相手は事情が違う。自分が勝手にキレて、邪魔だからと言って当り散らしただけだ。その八つ当たりで相手が死んでしまったとしたら?
自分はあの人間よりマシだと、誰が言える?
シャグマは熊爪のついた手袋を外した。相手を引っかいてしまう恐れのない素手で、ゆっくりと手を伸ばす。
指先が、動かない白に触れようとした、その時。
とん、とシャグマの背中に何かがぶつかった。
「え?」
振り返ったシャグマの目に飛び込んできたのは、白い頭だった。
ボサボサになった白い縮れた髪の毛。前髪の下で、細められた白い瞳が赤い光を放っている。
感情表現の控えめなその表情は、今は怒っているようにも見えた。
立ち込めていた土煙が晴れたのは、ちょうどその時だった。
鮮明に見えるようになった木の下では、白髪の娘の白いコートだけが下敷きになっていた。
「あんた!」
「……今のは私も肝が冷えたよ」
トーンの下がった声でシラフィーは言う。
暑そうないつもの上着とは対照的に涼しげなインナー姿で、彼女はシャグマの身体を背後から抱きしめるように捕まえた。
とっさにシャグマは彼女を引き離そうとするが、腰のあたりをがっちりと掴まえられていて、なかなか振りほどけない。
「放せよ!」
「放したらまた殴るんじゃないの?」
「今殴るぞ!」
「遠慮しておく。どうしても聞く耳を持ってくれないようだから、私もやり方を変えさせてもらうよ」
シャグマが拳を振り上げるよりも早く、シラフィーは彼女の口を手で塞いだ。
いつもその手を覆っていた黄土色の手袋はない。シャグマを睨みつける瞳の奥で、赤い光が輝きを増した。
「っ?!」
(そうか……こいつも、毒、キノ、コ……)
シャグマの視界が揺れる。山の木々が二重三重に映り、ありもしないはずの星が見える。
同時に感じたのは胃腸に泥を詰められたような不快感と吐き気だった。吐き出そうにも、白い娘の手はシャグマの口を封じたままだ。
「少し気分は悪くなるけど、死にはしないから。このまま少し眠ってもらうよ」
シラフィーの声がよく聞こえない。耳鳴りや幻聴が頭の中で鳴り響いている。
やがて上下の感覚までもが曖昧になり、身体から力が抜けていく。意識が朦朧とし始めた。
(こ、のや、ろ……)
この娘は、やっぱり一発ぶん殴らないと気が済まない。
視線を動かし、力を振り絞って拳を振り上げたところで、シャグマは見た。
辛そうに表情を歪めるシラフィーの顔を。
「……ごめんね」
惑乱する五感の中でも、その囁きだけは妙にはっきりと聞こえた。
重く、辛く、寂しげな響きを持った声だった。
(馬鹿……謝るくらいなら、最初から、すんなよ……)
そんな心の中での悪態を最後に、シャグマの意識は途絶えた。
相手の身体がくたりと弛緩したのを確認すると、シラフィーはそっと彼女を倒れた木の上に横たわらせた。
そして、下敷きになったままの自分のコートを探ると、袋に詰められた小さな丸薬を取り出した。
気を失ったシャグマの口を開かせて、丸薬を押し込む。ちゃんと飲み込めるか心配だったが、無意識のまま彼女の喉が動くのを見て、シラフィーはほっと息を吐いた。
「これでよし、と」
苦しげに歪んでいたシャグマの表情がいくぶん和らいだものとなる。解毒剤はきちんと機能したらしい。
シラフィーは脱ぎ捨てた手袋を付けなおす。神経と胃腸に同時に作用する彼女の毒は、再びしっかりと封じ込められた。
手袋に包まれた手を擦り合わせながらシラフィーは次の事を考える。予定とは大分違った結果となり、シャグマの説得はできなかったものの、大人しくさせることはできた。
とりあえずは彼女を連れて海空の庵まで戻り、怪我の手当てをしてしまうのが先決だろう。彼女の目が覚めて、気分が落ち着いていたら、もう一度話をすればいい。
そこまで考えたところで、ふとシラフィーは寒気を感じた。
「へくちっ」
気が付けば、太陽はすでに山並みの向こうに消えていた。
汗に濡れた肌を夜気が撫でる冷たさで、シラフィーは自分の今の格好を自覚した。
薄手のインナーのみの服装のせいで、厚着では分かり辛かった彼女の意外なスタイルの良さがよく分かる。
春と夏の境目の快適な気候とはいえ、この格好で夜の山をうろつくのは少々辛いだろう。暑さに異常なほど耐性がある反動か、寒さは少々苦手なシラフィーだった。
身体が冷えてしまう前に、脱ぎ捨てた上着を急いで回収しようとする。
「コート、コートっと……あ」
だが、そこでコートはまだ木の下敷きになったままだったことを思い出す。
引っ張ってみても、押しても引いても、コートも大木もびくともしない。あまり無理をするとコートが破れてしまいそうだったので、やめた。
他の衣類――マントやマフラー、それにシャグマに飛ばされた帽子はすぐに回収できたが、コートが無いままそれを着ると、一体どの季節に合うのか分からない、ちぐはぐな格好になった。
「……仕方ないか。これは後で何とかしよう」
名残惜しそうな視線をコートに向けつつ、シラフィーは深い溜息を吐いて、気を失ったままのシャグマの身体を背負った。
「う、重……くない」
一瞬、ぐらりとバランスを崩しかけるが、なんとか持ち直す。
シャグマが起きてしまわないように注意しながら、シラフィーは海空の庵を目指して山の奥へと歩き出した。
「帰ったら、お風呂に入りたいなぁ」
汗と土埃、それに大木を避けた時の擦過傷で汚れた自分の身体を見ながら、シラフィーはぼやく。確か、海空の家にはあったはずだ。シャグマの手当てが終わったらご厄介になろう。
帰った先に楽しみがあると思えば、疲れた足取りも少しは軽くなった。
へくちっ、と何度かくしゃみの音を残しつつ、少女の姿は闇の中に消えていった。