夢夜
「レディ、私と踊っていただけませんか。」
知らない男だ。赤茶色の長めの髪を一つに束ね、濃紺に金の刺繍を施してある意匠の服装で色気の感じられる紳士だ。年齢は殿下よりもいくつか上だろうか。大人の余裕のようなものも感じる。
ふわりと笑う笑顔にやられるお嬢様は多いはず。私の前で跪き手を差し出されているが、これをとっていいのかわからない。
確かにさっきまで殿下と一緒にいたから、どこかの令嬢と思われているのだろうけど、生憎私は本物じゃない。それに正体だって明かしてはいけない・・・のだと思うのだが、せっかく誘ってくれたダンスをお断りするのも憚られる気がする。しかし、ここで反応を間違えでもして、粗相をした場合の般若の顔が容易に浮かんでくる。
「えっと・・・あの、」
取り合えず差し出された手を取ろうとしたところで、その手は別の手に遮られた。
「申し訳ないが、こちらの姫は私と踊ることになっている。」
「これはこれは王子殿下。」
「殿下!」
先ほどまでどこかの貴族と話をしていたはずなのに、いつの間にこちらに来ていたのだろうか。私の手を握りしめたまま翠の目で見知らぬ男を睥睨している。跪いた男に対して殿下は立っているため見下ろす感じだ。もちろん、眉間にはしっかりとしわが刻まれている。
しかし殿下に睨まれた男は怯むことなく私に差し出していた手をさっと自分の胸元にもっていくと、そのまま殿下に対して礼を取る。その際、殿下と私に対する賛辞も忘れない。抜かりのない男だ。
「それでは、今日のところはこれにて失礼いたします。」
散々口上を述べたあと、ゆっくりとした動作で立ち上がる姿は、優雅の一言につきる。男の賛辞に眉一つ動かさない殿下に気を悪くするでもなく、不気味に思うくらい笑みを保ったままだ。
そして去り際。
男は私の、殿下に握られていないもう片方の手を取るとゆっくりと自分の口元に持っていく。
「次に会ったときにはお相手してくださいね。」
手袋ごしに感じたのは柔らかな感触。初めてされた口づけだ(手の甲にだけど)。通常はするフリだけで、口をつけないはずなのだが、男はしっかりと口付けで去って行った。
しかも、ばっちり殿下に見られた。恥ずかしい。
ちらりと殿下を伺えばこらもう、人ひとり殺せますよってくらい顔をしかめていた。なぜだ。そんなにあの男が気に入らなかったのだろうか。たしかにうっとうしい感じはしてたけども。それとも余計な人と話をしていた私に怒っているのか。殿下はコーリア様と違い思っている事を言葉にしないようだから全く考えが読めない。
「来い。一曲踊ったら帰るぞ。」
殿下は不機嫌な顔で私の手を掴んだままダンスホールへ向かうと、人の輪の中に入っていく。殿下がそばを通る度に令嬢からの羨望のまなざしと感嘆の声が漏れる。そして嫉妬の凶器の如きまなざしは私に容赦なく突き刺さっている。
「あの、殿下。私、あまりダンスは上手くないんですけどっ・・・。」
小声でそう訴えれば「問題ない」とだけ返し、そのままメロディーに合せて私をリードしだした。さすが殿下だ。私がステップを間違えようが、つまずきそうになろうがおかまいなく・・・・じゃなかくて、上手にリードしてくれる。まるでダンスが上手くなったのかしらと錯覚するくらいに。
いつもより身体が密着し、顔が近い。やはり見れば見るほど整った顔立ちで、まさに理想の王子様像を体現した人だなと思う。男性というのにシトラス系の良い香りもして、高貴な人ってやっぱりすごいんだなと今さらながら自分と殿下との差に愕然とさせられる。偽者で、飾り立てられただけの私と、本物の高貴な人。まさか踊れる日が来るなんて、この目で拝むことができただけでも夢かと思ったのに、今、殿下はこんなに近くにいる。光に照らされた蜂蜜色の髪も、エメラルドの瞳も、今は私だけを見ている。例え嫌々だとしても、仏頂面だとしても、今は私だけを。こんなありえない状況を考えると、現実とは思えなくてつい笑ってしまう。
「何が可笑しい。」
眉間のしわを深める殿下に「なんでもありません」とだけ返すと、さらにしわが刻まれ、口を突き出すような形になった。あ、ちょっとその顔可愛いかも。
一曲が終わると殿下はすぐさま私の腰を抱いたまま人の流れに逆らいつつもダンスホールから出る。
その間にも「次は私と・・・」とお嬢様方からモーションをかけられるが、その都度一刀両断し、そのままホストにもう一度挨拶をすると会場の外へと向かっていく。
「殿下、もう帰られるのですか。」
「あぁ。もう充分だろう。」
一番に出てくることを予想していたのか、乗ってきた馬車は出入口から一番近い場所を陣取っていた。
馬車の御者と話をしていたコーリア様がこちらに気づき、扉を開ける。
「随分と早かったのですね。」
「ふん。分かっていたくせに。」
殿下はコーリア様の嫌味も軽く流し馬車へと乗り込む。私はその後をヒールをひっかけないようにして馬車に乗り込もうとしていると、ふいに目の前に手が差し伸べられているのに気づいた。
「なんだ。いらないのか。」
殿下が手をひっこめようとするから慌てて手を掴んだ。
「ありがとうございます。」
私が席に着きその隣にコーリア様が座って御者に声をかけると馬車は走り出した。
「王子、パーティーはいかがでしたか。」
にこりと嫌な笑みで問うと殿下は「金の無駄だ。もう二度と出たくない。」とだけ返していた。そのまま腕を組み、窓の外を睨みつけるようにコーリア様から顔を背ける。
引きこもりですか、貴方は。一国の第一王子なのだから、パーティーの類は避けられまい。
「そうですか。そうお思いのところ申し訳ありませんが、一週間後には茶会があります。ダリア様が招かれていますが、殿下も出席するようにと王が申しております。」
殿下は窓際に肘をついて外を睨んだまま舌打ちをする。その姿が子どもっぽくてくすりと笑っていると、矛先がこちらに向いた。
「笑っている場合ですか、貴女は。今度は茶会のマナーを覚えていただきますよ。あぁ、それから、茶会にはいい性格だと有名なご令嬢が何名か出席しますのでご覚悟を。」
「え?いい性格なら大丈夫なのでは・・・?」
「強かで打算的という意味で良い性格をしているのです。あわよくば王子の花嫁の座を手に入れようとしておりますので・・・王子が連れて来た貴女を見れば集中砲火を浴びせるかもしれませんね。」
ニタリと口を歪ませる。本当、あなたのほうがいい性格してるよ!と思うが、口になんてもちろん出せません。
「善処します。」とだけ答えておいた。