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数式の花束

作者: hiro0720
掲載日:2026/04/08



その日の朝、研究所のエントランスに新しい顔があった。


白衣を着た若い女性が、受付で手続きをしている。黒髪を一つに束ね、少し緊張した様子で書類を記入していた。


堀田が直人に声をかけた。「神崎くん、今日から新しい研究員が来ます。案内をお願いできますか」


「わかりました」


直人はエントランスに向かった。女性が顔を上げた。


「はじめまして。今日からお世話になります、佐藤栞です」


「神崎直人です。よろしくお願いします」


栞は直人を見て、少し目を丸くした。「神崎くん、副所長補佐って何?」


「ええと、中学生の僕に与えられた特別な役職ですかね」


「へぇ、そうなんですか」栞は笑った。「貴方も何か研究を?」


「ええ、色々やってます」直人は苦笑いした。「案内しますね」



研究所を一通り案内した後、直人は博士の工場の前で立ち止まった。


「ここが所長の工場です。博士はいつもここにいます」


「所長に挨拶した方がいいですよね」栞は言った。


「一応した方がいいと思いますが」直人は少し躊躇った。「博士は少し、変わった方なので」


「大丈夫ですよ」栞は明るく言った。「どんな方でも」


直人はノックした。


「開いとる」


扉を開けると、博士はデスクに向かって設計図を眺めていた。振り返りもせずに言った。「なんじゃ直人、今忙しい」


「新しい研究員の方が挨拶に来たよ」


「後にしろ」


栞が扉から一歩入った。「はじめまして。今日からお世話になります、佐藤栞と申します。よろしくお願いします」


博士が振り返った。


その瞬間、博士の動きが止まった。


設計図を持ったまま、固まった。


栞は気づかずに続けた。「榊博士のご研究を拝見して、ぜひこちらで学びたいと思いまして。どうぞよろしくお願いします」


博士は何も言わなかった。


直人は博士の顔を見た。いつもの鋭い目が、今は違う表情をしていた。驚きとも、戸惑いとも、悲しみともつかない、見たことのない顔だった。


「博士?」直人は小声で言った。


博士はようやく我に返ったように、小さく咳払いをした。「……ああ」博士はぶっきらぼうに言った。「精進せい」


栞は「ありがとうございます」と頭を下げて工場を出た。


直人はもう一度博士を見た。博士はすでに設計図に向き直っていた。でもその手が、微かに震えていた。



それから博士の様子が変わった。


以前は工場に籠もりきりで、誰かを呼ぶことなどほとんどなかった。直人でさえ、用がなければ工場に近づかない方がいいと思っていたくらいだ。


それが、栞が来てから変わった。


「佐藤栞を呼んでこい」


最初に直人がそれを聞いたのは、栞が来て数週間後のことだった。


「博士が呼んでいます」と伝えると、栞は「はい、すぐ行きます」と言って工場に向かった。


しばらくして工場から栞の声が聞こえてきた。「この数式の展開なんですが、こういうアプローチも考えられませんか」


博士の返事は聞こえなかった。でも会話は続いていた。


それが毎日になった。


朝、栞が挨拶に来る。午後、博士が栞を呼ぶ。夕方、また呼ぶことがある。工場の扉が開いたままになり、二人の会話が廊下に漏れてくる。


直人はその様子を不思議に思いながらも、そっとしておいた。



ある日の夕方、直人が廊下を歩いていると、工場の前にザイロンが立っていた。


壁にもたれ、腕を組んで、工場の中を見ていた。


直人は近づいた。


工場の中では、博士と栞が設計図を広げて話し込んでいた。博士が数式を書き、栞が覗き込む。栞が何か言うと、博士が「ほう」と言って書き直す。


「ザイロン」直人は小声で言った。「ここで何してるの?」


「見ていた」ザイロンは静かに答えた。


「何を」


ザイロンは答えなかった。ただ工場の中を見ていた。


博士が珍しく声を上げて笑った。栞が「そうですよ、だから言ったじゃないですか」と言っている。


直人はザイロンの横顔を見た。ザイロンの目が、いつもと少し違う気がした。鋭さの中に、何か柔らかいものが混じっている。


「ザイロン、どう思う?」直人は聞いた。「博士のこと」


ザイロンはしばらく黙っていた。


「俺がここに来てから」ザイロンはぽつりと言った。「あの爺さんがあんな顔で話しているのを見たことがなかった」


直人は工場の中を見た。博士がまた何か言って、栞が笑っている。博士の顔が、いつもより穏やかだった。


「悪くない」ザイロンは静かに言った。「あの爺さんにとっては、悪くない時間だ」


でもその目が、少し陰った。


直人にはわかった。ザイロンはすでに知っていたのだ。栞がNASAの回し者であることを。この時間がいつまでも続かないことを。


「ザイロン」直人は言った。「博士に話さなきゃいけないよね、いつか」


「ああ」ザイロンは短く答えた。「だがまだいい」


「なんで」


ザイロンはしばらく黙った。


「あの爺さんが、あんな顔をしているのを」ザイロンは静かに言った。「もう少しだけ見ていたい」


工場の中から、また博士の声が聞こえてきた。「この数式の先を考えてみろ。なかなか面白いことになるぞ」


栞が「はい!」と弾んだ声で答えた。


廊下に、夕方の光が差し込んでいた。


直人はザイロンの横顔を見た。


ロボットのくせに、とても人間らしい顔をしていた。


一方その裏で栞には複雑な感情が渦巻いていた


佐藤栞がこの研究所に来た時から、罪悪感はあった。

 NASAから頼まれた。それだけだ。義理がある。それだけのことだ。最初はそう思っていた。

 エントランスで書類を記入しながら、栞はずっと自分に言い聞かせていた。情報を集めたら戻る。長くても半年。誰も傷つかない。

 その日の午後、案内してくれた神崎直人という少年と博士の工場に挨拶に行った。

 振り返った博士の顔を見た瞬間、栞には何かが伝わった。うまく言えないが、確かに伝わった。その目に、驚きと、戸惑いと、一瞬だけ顔を出してすぐに引っ込んだ、何か柔らかいものが。

 博士は「精進せい」と言っただけで、それ以上何も言わなかった。

 研究所を出て自分のデスクに戻った時、栞の中で何かがざわついた。

 でも栞はその感覚を無視した。仕事だから。義理があるから。

 博士が自分を呼ぶようになったのは、来て数週間後のことだった。

 工場の扉を開けると、博士は設計図を広げて「ちょうどいい、これを見ろ」と言った。挨拶もなかった。でも声に刺がなかった。

 栞は設計図を覗き込んだ。

 論理の飛躍がある。でも飛躍の先に、何かある。栞はそれが見えた。「この展開なんですが、こういうアプローチも考えられませんか」と言ってみると、博士は黙って聞いていた。それから「やってみろ」と言った。

 その日の夕方、栞は長い時間工場にいた。

 帰り道、自分が笑っていたことに気づいた。本当に楽しかった。その事実が、少しだけ怖かった。

 一ヶ月が経った頃、栞は自分のノートに何も書いていないことに気づいた。

 NASAへの報告用のノートだ。来る前に渡されたもの。研究所の技術動向、博士の研究の方向性、進捗。そういったものを書くはずだった。

 ページは白いままだった。

 書こうと思えば書けた。材料はある。博士は栞に多くを見せた。惜しみなく、というよりも、自然に。「お前はどう思う」と聞きながら、自分の思考を広げていくように。

 その思考を、誰かに渡すことが、栞にはできなかった。

 ノートを閉じた。引き出しの奥に入れた。

 自分が任務を果たしていないことはわかっていた。でも、それ以上に考えたくなかった。

 二ヶ月が経った。

 ある夕方、博士が数式の途中でふと黙った。それから独り言のように「お前は数学が好きか」と聞いた。

 「好きです」と栞は答えた。「子どもの頃から、数式を見ると落ち着くんです」

 博士は少しの間、栞を見た。その目が、また何か遠いところを見ていた。

 「そうか」と博士は言った。それだけだった。

 でも、その後しばらく博士の手が止まっていた。

 栞はそれを見ながら、胸の奥が痛むのを感じた。

 この人は、自分が思っていたよりずっと、傷を持っている。そしてその傷の形が、自分には少しだけ見えてしまう。

 それが余計につらかった。

 三ヶ月が経った朝。

 栞はいつものように研究所に来て、自分のデスクに座った。今日も博士に呼ばれるかもしれない。そう思うと、楽しみと、それと同じくらいの重さが同時に来た。

 この場所が好きだ。本当に。

 そしてそれが、どうにもならないことも、栞にはわかっていた。

 ザイロンはとっくに知っている。あのロボットは、来た初日からわかっていたはずだ。それでも何も言わなかった。なぜかは知らない。でもいつか必ず来る。

 来てよかった。本当に、そう思う。それが罪悪感をなくすわけではなかった。むしろ、来れば来るほど重くなった。

 博士が自分を呼ぶたびに、栞は一度だけ目を閉じてから工場に向かった。

 扉を開けると「来たか」と博士が言う。それだけで、胸のどこかが締まった。

 午後、デスクで資料を整理していると、廊下の向こうからザイロンが歩いてくるのが見えた。

 ザイロンは栞のデスクの前で止まった。

「佐藤栞」

 低い声だった。

「副所長室に来い」

 栞は立ち上がった。

 来た、と思った。

 怖くはなかった。むしろ、ずっと待っていたような気がした。


副所長室に入ってきた栞は、ザイロンの顔を見て何かを察したようだった。


「座れ」ザイロンは言った。


栞は静かに椅子に座った。


「単刀直入に言う」ザイロンは続けた。「お前がNASAから派遣されたことはわかっている」


栞は動じなかった。少し目を伏せ、それから顔を上げた。「……いつから」


「お前が来た時からだ」ザイロンは答えた。「13歳でMITに飛び級で入り、NASAと深い関係にある。調べればすぐにわかることだ」


栞はしばらく黙っていた。「解雇ですか」


「ああ」


栞はうなずいた。「わかりました」


「納得しているのか」


「NASAには資金面で大変お世話になりました」栞は静かに言った。「義理があってここに来ました。でも」栞は少し間を置いた。「正直に言うと、来てよかったと思っています。ここは本物の研究をしている場所だと感じました」


ザイロンはしばらく栞を見ていた。


「荷物をまとめろ。今日中に出ていけ」


「はい」栞は立ち上がり、深々と頭を下げた。「お世話になりました」



栞が副所長室を出てしばらくして、廊下に足音が響いた。


勢いよく扉が開いた。


博士だった。白衣のまま、工具を手に持っている。目が鋭い。


「ザイロン」博士は言った。「佐藤栞をクビにしたとはどういうことだ。彼女は優秀だ。儂の助手にする」


ザイロンは椅子に座ったまま博士を見た。「あんたが一研究員の名前まで覚えるとはな。よほど入れ込んでるようだ」


「当然じゃ。あれほど優秀な研究員はそうおらん」


「だが駄目だ」ザイロンは静かに言った。「あの女はNASAの回し者だ」


博士の目が鋭くなった。「証拠はあるのか」


「ある」


「それでも儂は構わん」博士は言った。「所長権限じゃ。あの娘をクビにすることは許さん」


ザイロンは立ち上がった。机を叩いた。


「いい加減にしろ、ジジイ」


博士が黙った。


「頭を冷やせ。あんたはNASAの策略にはまってるんだよ」ザイロンは続けた。「研究所の技術を探るために送り込まれた人間だ。それがわかっていて庇うというのか」


博士はしばらくザイロンを見ていた。


部屋に沈黙が落ちた。


やがて博士は小さく息を吐いた。何も言わずに副所長室を出ていった。



博士の工場に、栞が呼ばれたのはそれから一時間後だった。


栞は荷物をまとめかけていたところだったが、博士の呼び出しを断れなかった。


工場の扉をノックした。


「開いとる」


中に入ると、博士はデスクに向かっていた。振り返り、栞を見た。


「座れ」


栞は椅子に座った。


「ザイロンに話は聞いた」博士は静かに言った。「出ていくそうだな。残念だ」


「博士」栞は言った。「私は確かにNASAから頼まれてここに来ました」


「知っておる」


「申し訳ありませんでした」栞は頭を下げた。「でも」栞は顔を上げた。「本当に、ここで学べたことは本物でした。博士の研究は、私が今まで見てきたどんなものとも違いました」


博士は黙って栞を見ていた。


「一つだけ聞いてもいいですか」栞は続けた。「博士はなぜ、私にこんなによくしてくださったんですか」


博士はしばらく黙っていた。


それからゆっくりと口を開いた。


「儂には女房がおった」博士は静かに言った。「40半ばで逝ってしまったがな。誰にでも優しくて、誰にでも分け隔てなく接して、儂がどんなに偏屈でも全く動じなかった。馬鹿みたいに儂のことが好きだったんじゃ」


栞は黙って聞いていた。


「お前を見た時」博士は続けた。「驚いた。顔も、声も、雰囲気も、あいつにそっくりじゃった」


工場に静寂が落ちた。


博士は引き出しから紙を取り出した。鉛筆を手に取り、何かを書き始めた。


数式だった。


複雑な数式が、紙の上に広がっていく。博士の手が迷いなく動く。しばらくして、博士はペンを置いた。


紙を栞に差し出した。


「これは?」栞は受け取りながら聞いた。


「女房が若い頃、儂に教えてくれた数式じゃ」博士は言った。「あいつは数学が得意でな。儂が行き詰まるたびに、こうやって紙に書いて渡してくれた」


栞は数式を見た。複雑だが、美しい流れがある。


「この数式の意味は」栞は聞いた。


博士は少し間を置いた。


「持っていけ」博士はぶっきらぼうに言った。「お前が解いてみろ」


栞はしばらく数式を見ていた。その目が、少し潤んだ。


「ありがとうございます、博士」


博士は鼻を鳴らした。「早く行け。ザイロンに怒られる」


栞は立ち上がり、深々と頭を下げた。「お世話になりました」


扉が閉まった。


工場に、博士一人が残った。


博士はデスクに肘をつき、手で顔を覆った。


しばらく、動かなかった。



廊下で直人は栞とすれ違った。


栞はキャリーバッグを引いていた。手に、一枚の紙を大事そうに持っている。


「お世話になりました、神崎くん」栞は笑顔で言った。でもその目が、少し赤かった。


「お気をつけて」直人は答えた。


栞はエントランスに向かって歩いていった。


直人は博士の工場を見た。扉が閉まっている。


中から音はしなかった。


直人はそっとその場を離れた。



その夜、栞はホテルの部屋で荷物を解いた。


キャリーバッグから取り出したものを一つ一つテーブルに並べていく。


最後に、あの紙が出てきた。


博士から渡された数式だ。栞は椅子に座り、紙を広げた。


蛍光灯の下で、数式を眺めた。


複雑だが、美しい。博士の筆跡が、紙の上を走っている。


栞はゆっくりと数式を追っていった。


しばらくして、手が止まった。


「これは……」


引力の方程式だった。


しかも単純な引力ではない。二つの全く異なる性質を持つ存在が、距離を超えて引き合う。時間が経っても、その引力は変わらない。むしろ時間が経つほど強くなる。


栞はしばらく数式を見つめていた。


「博士……」


栞は息を呑んだ。

それは、理論上は存在し得ない数式だった。

距離が離れても、時間が経っても、決して弱まらない結びつき。

むしろ、遠ざかるほどに強くなる。

ありえない。そんなものは、物理法則に存在しない。

それでも――

栞はゆっくりと紙を折り畳んだ。

胸の奥が、少しだけ痛んだ。

「……ずるいですよ、博士」

小さくそう呟いた。

それが、この世界で最も難解な「さよなら」だった。



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