患者
――その患者は、三ヶ月前から来なくなった。
冬も終わりに差し掛かってきた三月。日が沈むと、まだ風は肌寒く感じる季節。
関西の片田舎で鍼灸院を営んでいる佐藤祥平は、予約簿を見ていた。
「今日の診療は終わりやな」
予約簿を二度三度見返した佐藤は、予約簿を閉じて片付けを始めた。院内の奥へと向かい、玄関に向かって順に片付けていく。物置に置いてある道具類の在庫を確認する佐藤は、眉間に皺を寄せている。
「これだけあれば、一週間の治療は大丈夫やろ」
最後に道具類を見渡し、次に施術室の片付けに向かう。
ベッドに敷いているシーツを回収して洗濯箱に入れると、アルコールを含んだシートでベッドを隅々まで吹き上げる。それから新しいシーツを敷く。ベッドの片付けが終わると、ステンレスのワゴンをベッドの頭側の辺と平行になるように起き、上に置いてある道具類も決めている位置に直す。綺麗に整理整頓された施術室を見て、佐藤は満足に口角を上げた。
最後に片付けるのは、カルテファイルである。机の上に積まれているファイルは、朝から治療した患者の順で、佐藤はそれを崩れないようにひっくり返すと、上から順に確認していった。
「記入漏れはなさそうや」
確認を終えたカルテファイルは、鍵付きの棚へ、五十音順になるように入れていく。
半分ほど戻したところで、ファイルが入りにくくなっているのを、佐藤は感じた。
「棚が狭なってきてんなぁ」
ファイルが折れないように注意しながら、佐藤は無理やり棚へ戻そうとする。
ファイルが棚に収まろうとした瞬間、その周りのファイルが押し出されるように飛び出し、棚に詰まっていたファイルたちが次々を落ちていった。
「やってもうた……」
佐藤は、床に散らばったファイルを呆然と見下ろしながら呟いた。三十秒ほど止まったのち、ため息を吐きながらファイルを拾い始めた。
一つ一つ名前を確認しながら拾っていく佐藤だったが、一冊のファイルを見た途端、拾う手が止まった。
「春田茂さん……最近来てへんな」
カルテの表紙に書かれていた日付は、三ヶ月前が最後になっている。それまでは、毎週のように来ていて、時間までも同じであった。
「最後の治療で、何か失礼なことしてもうたんかな」
佐藤は、カルテを開いて最後の治療日の内容を確認した。鍼をした経穴、灸をした経穴の記録とともに、どんな会話をしたのかも記録してある。
「野球の話と盆栽の話をしてんな。野球は好きな球団が一緒やったしな……盆栽の話が分からなかったのが良くなかったんかな……」
カルテの開いたまま、佐藤はしばし考え込んだ。
「アカン。三ヶ月も前やと思い出せん」
佐藤はカルテを閉じ、床に散らばったカルテを再び拾い出した。
時折、春田のカルテを一瞥しながら拾い続けていると、院の入り口の扉が開く音がした。佐藤は立ち上がり、入り口に視線を向けた。扉の前に、白髪の女性が立っていた。
「すみません、今日の診療は終わっておりまして――」
「あ、ごめんなさいね。私、患者じゃないんよ」
女性は、手で軽く佐藤を制止すると、肩にかけた鞄から封筒を一つ取り出した。
「私は、春田茂の妻です。診療中はご迷惑やと思てね。この時間に来させてもらいました」
「ああ、そうなんですね……」
佐藤の耳は、赤くなっていた。声色も少し硬い。
「旦那さんはお元気ですか?」
「そのことなんですが、この封筒に主人からの手紙が入っていますので、読んでもらえますか?」
「あ、分かりました」
佐藤は、春田の妻から封筒を受け取ると、丁寧に封を切った。封筒の中には、三つ折りされた紙が三枚入っていた。紙には文字が隙間なく書かれている。
「あ、よかったらそちらの椅子を使ってもらって大丈夫なので」
「あら、ありがとうね」
春田の妻が待合の椅子に座るのを待ってから佐藤は、春田からの手紙を読み始めた。
初めは神妙な面持ちで読んでいた佐藤だったが、読み進めていくにつれて、表情が緩んでいった。
最後まで読み終えた佐藤は、手紙を封筒に戻すと春田の妻の方を向いた。
「旦那さん、入院されていたんですね。最後に治療に来られた日の帰りに事故にあったと」
「そうなんよ。『今日は治療の日や』って嬉しそうに出かけていったと思ったら、事故にあったって電話がかかってきてな。あの時はびっくりしたわ」
春田の妻は、笑いながら言葉を続けた。
「急いで病院行ったら、足を固定されたあの人がベッドに寝とってな。身体中に擦り傷もあって。先生から両脚折れとるって。リハビリも含めて三ヶ月は入院しないとアカンて言われた時は、頭抱えたわ」
「大変でした。旦那さんも落ち込まれたでしょう」
「それが聞いてや、先生!」
春田の妻は、楽しそうに佐藤に向かってそう言った。
「手紙に書いてあったかも知らんけど、あの人が入院って言われた時に最初に困ったと言ったんが、ここへ来られへんくなることやってんよ」
「確かに手紙にも書かれていましたが、社交辞令的なものかと」
「それが本気でそう思ったみたいやねん。まあ、ここで治療を受けて帰ってきた日は、あの人いつも機嫌が良さそうやったわ。よっぽど先生に会うのが楽しみやったんみたいやで。先生とこ行くと、体は元気になるし、どんな話でも愛想良く聞いてくれるから、いつも楽しいて言ってたわ」
「嬉しいですね、そう言ってもらえて」
佐藤の顔に笑みが浮かぶ。赤くなっていた耳は、さらに赤みを増していた。
穏やかな空気が流れる中、春田の妻がふと時計を確認した。
「あら、もうこんなに時間経ってもうてるやん。ごめんな、先生、邪魔してもうて」
「いえ、そんな。春田さんが元気にされていることが知れて、僕も嬉しかったです」
「私も先生と話せてよかったわ。あの人が会いたがるんもよう分かる……ほな、今度は二人で来させてもらいますね」
「はい、お持ちしております」
春田の妻は、佐藤に一礼して帰っていった。一人となった佐藤は、余韻に浸りながら、残りの片付けを急いで行った。今度はファイルが飛び出さないように慎重に棚に戻していく。
最後のファイルを戻す前に、佐藤はそのファイルを開いた。それは春田のカルテだった。中に手紙の入った封筒を入れると、佐藤はそれをしばし見つめた。
「春田さん、治療が嫌になったわけじゃなかったんや。むしろ逆やってんな」
佐藤は、改めて封筒の手紙を取り出して読んだ。
「また会えるんやな」
そう呟きながら、佐藤は、手紙を挟んだカルテに挟む。そしてファイルを、一番手前の取り出しやすい場所にしまった。




