第五章:絶望の雨雲と、琥珀色の決戦
永久凍土の最果てから、二人は空へと向かった。 シュガー・クリスタル・マウンテンの頂上、雲を突き抜けたその場所は、不気味なほどの静寂と、息が詰まるほどの湿気に支配されていた。
「……来たか。甘い夢に浸る、愚かなお菓子共よ」
空を覆い尽くす黒い雲の中から、形を持たない巨大な影が現れた。それは「絶望の雨雲の精霊」。かつてお菓子の国に豊かさを与えていた恵みの雨が、人々の「どうせ幸せなんて溶けて消える」という諦めの心と混ざり合い、変質してしまった悲しい怪物だ。
「精霊さん! お願い、霧を止めて! みんな、ふにゃふにゃになって困ってるんだよ!」
カロンが叫ぶが、精霊は冷たく笑うだけだ。その周囲からは、触れたものを泥のように溶かす「絶望の雨」が降り注ぎ始める。
「止めてどうなる。固めたところで、いつかは湿気る。形あるものはすべて虚無に帰るのだ。お前たちのその『絆』とやらも、この雨の中でいつまで保つかな?」
「――保つかどうかじゃない。俺が保たせるんだよ」
ソルがカロンを一歩後ろに下げ、前に出た。彼の体は、先ほどの神殿での消耗で、ところどころ透き通って、背景の雲が透けて見えるほどだ。
「カロン、準備をしろ。……あいつに、世界で一番硬いものを食わせてやる」
「でも、ソル! これ以上火を使ったら、本当に消えちゃうよ!」
「お前は、俺を誰だと思ってる。……俺は、お前の使い魔だ。お前が笑わない世界に、俺が残っている意味なんて一つもないんだよ!」
ソルの咆哮とともに、彼の全身から、これまでにないほど強烈な、青と黄金色が混ざり合った炎が噴き出した。それは「塩の盾」。降り注ぐ絶望の雨を、熱と塩気で一瞬にして蒸発させ、カロンの周囲にだけ、完璧に乾燥した聖域を作り出す。
「ソル……っ。わかった。私、やるね!」
カロンは、チュロじいから教わった知識と、チョコ王から学んだ熱制御、そして巫女から受け取った「甘い涙の砂糖」を小鍋に投入した。 カロンの指先が、魔法のヘラを踊らせる。 煮え立つキャラメルは、ソルの命の輝きを受けて、見たこともないほど深く、美しい琥珀色へと変わっていく。
「おいしくなーれ! 二人の絆を、絶対に溶けない盾にして、おいしくなーれ……!!」
キャラメルの鍋に、香ばしいアーモンドを投入する。ソルの火が最高潮に達し、神殿で得た「極致の冷気」がそれを一瞬で固める。
サクッ、パキィィィン!!
空に、かつてないほど高く、硬く、美しい音が鳴り響いた。
二人の手の中に完成したのは、掌サイズの黄金色の盾。 伝説の『守護のフロランタン』だ。
「な、なんだ、その輝きは……! 私の雨が、届かない……!?」
精霊がたじろぐ。フロランタンから放たれる香ばしい香りは、人々の絶望を「温かな幸福の記憶」へと書き換えていく。
「これでおしまいだよ、精霊さん! 食べて、元気になって!」
カロンは完成したフロランタンを空高く掲げた。フロランタンは琥珀色の光の矢となり、精霊の核へと飛び込んだ。
「……あ、ああ……。そうだ、私は……みんなが、おいしく笑う顔が、見たかっただけ、だった……」
精霊の体から黒い霧が抜け、それは虹色の澄んだ雨へと変わっていった。世界を覆っていたベタベタとした湿気が、太陽の光に焼かれて消えていく。
霧が晴れた。 地上には、サクサクとした心地よい音が戻り、人々は自分たちの体が形を取り戻したことに歓喜の声を上げていた。 しかし。
「……カロン」
不意に背後で、弱々しい声がした。 カロンが振り返ると、そこには力なく膝をつき、今にも空気の中に溶けてしまいそうなほど透き通ったソルがいた。
「ソル! やだ、ソル! 嘘でしょ!?」
「……ハッ。世界は、救われただろ……。あとは、お前が一人で……工房を、守れ……」
ソルの指先が、砂のように崩れ始める。
「やだ! 一人なんて絶対やだ! ソルのいない世界なんて、全部湿気てるのと同じだよ!」
カロンは必死にソルの服を掴もうとしたが、彼女の手は空を掻いた。 その時、カロンの目から再び涙が零れた。だが、その涙はもう砂糖にはならない。ただの、悲しい少女の涙だ。
「……あ」
カロンは、自分のポケットに残っていた「半分に割れたフロランタン」に気づいた。自分たちが完成させた、究極の絆の結晶。
「これ、食べて! 二人で一つって、約束したでしょ!!」
カロンは透き通るソルの口に、無理やりその欠片を押し込み、自分も残りの半分をかじった。
「食べて……ソル、固まって……!私から、離れないで!!」
カロンが必死にソルの体を抱きしめる。 サクッ、と、二人の口の中で音がした。その瞬間、砕けたフロランタンから琥珀色の糸が伸び、二人の存在を強固に繋ぎ合わせた。ソルの透き通っていた体に、一気に血の気が戻り、黄金色の魔力が脈打ち始める。
「……ぐっ、おい、窒息させる気か……!」
ソルのハスキーな声が、静かな山頂に響いた。
カロンは驚いて顔を上げ、それからソルの胸に顔を埋めて、わんわんと声を上げて泣いた。
「……チッ。泣くなと言っただろ。せっかく世界が乾いたのに、また湿気るじゃないか」
ソルはぶっきらぼうに言いながら、カロンの背中を、今度はしっかりと実体のある腕で抱きしめた。
「……おかえり、ソル。大好きだよ」
「……ああ。……俺も、お前がいないと、火の点け方も忘れるところだった」




