第四章:氷菓の巫女と、甘い涙の真実
シェルターをさらに北へ進むと、そこは「色」の消えた世界だった。空も大地も、ただただ透き通るような白と、刺すような青。吹き荒れる雪は砂糖の粒のように細かく、カロンの体温を容赦なく奪っていく。
「さ……む、いね……ソル……。睫毛が、くっついちゃいそう……」
カロンの声は、寒さで小刻みに震えていた。彼女を包むソルのマントは、すでに真っ白な霜に覆われている。ソルは無言でカロンを抱き寄せた。彼の体は、使い魔としての全魔力を「発熱」に注ぎ込んでいるため、ストーブのように熱い。だが、その熱さえも、この永久凍土の冷気には、か細い蝋燭の火のように見えた。
「喋るな、体力が減る。……もうすぐだ。あそこに、氷の尖塔が見える」
霧の向こうに、水晶でできた巨大な氷菓の神殿、「クリスタル・フリージア神殿」が姿を現した。二人が神殿の奥深くへと足を踏み入れると、そこには一人の少女が、氷の蓮華の上に静かに座っていた。彼女の髪は透き通るブルーで、肌は雪のように白い。触れればパリンと砕けてしまいそうなほど繊細な彼女こそが、レシピの守護者「氷菓の巫女」だった。
「アンバーの末裔よ、よくぞここまで辿り着きました。しかし……」
巫女の瞳が、青く冷たく光る。
「ここから先は、ただの技術では進めません。伝説のフロランタンを完成させるには、どんな絶望にも溶けず、どんな孤独にも凍らない『究極の絆』が必要です。あなたたちに、それがあるというのですか?」
巫女が杖を一振りすると、神殿内の温度が一気に氷点下百度へと叩き落とされた。 それは「魂を凍らせる吹雪」。 カロンの指先が白くなり、意識が遠のき始める。
「カロン! 目を閉じるな!」
ソルが叫び、カロンを背後に突き飛ばした。彼は両手を広げ、自身の魔力を爆発させる。
「……俺を誰だと思っている。俺は、こいつを守るためだけに、あのじいさんと契約したんだ。こんな安っぽい吹雪で、俺の火を消せると思うな!」
ソルの全身から、青白い炎が激しく噴き出した。それは周囲の雪を蒸発させ、カロンの周りにだけ、暖かな琥珀色の空間を作り出す。しかし、その代償は大きかった。ソルの魔力は、彼の存在そのものだ。熱を出し続けるほど、彼の体は薄く、透き通っていく。
「ソル、やめて! もういいよ、私が我慢するから、そんなに火を出さないで!」
カロンが泣きながらソルの背中に縋り付く。ソルの背中は、火を出し続けているはずなのに、どこかひんやりと冷たくなっていた。限界が近かった。
「……黙ってろ。お前が、一口でもサクサクの菓子を食える世界を守るのが、俺の役目だ」
ソルの足元から凍りつき始める。銀色の髪も、青い瞳も、氷に閉じ込められようとしていた。
その時だった。カロンの瞳から、大粒の涙が溢れ出した。その涙は、凍りつくはずの空間で、なぜか凍らずにソルの肩へと落ちた。
「ソルがいなきゃ、お菓子なんておいしくない!世界が直ったって、一人で食べるフロランタンなんて、砂を噛むのと同じだよぅ……!」
カロンの絶叫とともに、落ちた涙がソルの炎と混ざり合い、パァァッ……と眩い琥珀色の光を放った。不思議なことが起きた。カロンの涙に触れた瞬間に、ソルの火が「優しく、力強い黄金色」に変わり、猛吹雪を霧散させたのだ。
巫女は驚きに目を見開き、やがて静かに微笑んだ。
「……見事です。レシピの空白に記されていた、失われた最後の材料。それは『バニラ蘭の花』でも、『極致のハチミツ』でもありませんでした」
巫女が差し出した手の中に、凍りついていたレシピの断片が浮かび上がる。そこには、二人の絆によって魔法が解かれた真の文字が刻まれていた。
『――材料は花にあらず。共に歩む者への想いが溢れ、零れ落ちた【甘い涙の砂糖】なり』
「甘い……涙の……お砂糖?」
カロンが自分の頬を拭うと、指先についた涙が、キラキラと輝く結晶へと変わっていた。それはバニラよりも芳醇な香りを放ち、どんな凍土でも溶かすほどの温もりを秘めている。
「……ふん。お前が泣き虫だから、レシピも気を利かせたんだろうよ」
ソルは体力を使い果たし、膝をつきながらも、憎まれ口を叩いた。だが、その瞳にはカロンへの深い愛おしさが滲んでいる。
「ソル、大丈夫!? いま、このお砂糖を舐めさせてあげるからね」
「バカ、それは大事な材料だろ、とっておけ……。それより、さっさと立ち上がれ。レシピは揃ったんだ」
巫女は静かに告げた。
「琥珀の修復師と、その守護者よ。あなたたちの涙が生んだその砂糖があれば、伝説のフロランタンは完成します。……しかし、急いで。霧の根源である『絶望の雨雲の精霊』が、今まさに、世界を完全に溶かそうとしています」
カロンはソルの手を強く握り締めた。ソルの手は、もう冷たくなかった。
「行こう、ソル。二人で一つ、最高のフロランタンを焼こうね!」
「……ああ。最後の一粒まで、焼き尽くしてやるよ」
二人は神殿を後にし、黒い雲が渦巻く空の頂へと向かう。 そこには、自分たちの絆をあざ笑う、巨大な絶望が待ち受けていた。




