第二章:しなしな髭のチュロじいと、琥珀の誓い
アンバー修復工房を旅立ってから、三日が過ぎた。 カロンとソルが辿り着いたのは、かつて「世界で最も乾いた黄金の地」と謳われたシナモン砂漠だった。しかし、二人の目の前に広がるのは、黄金の輝きを失った泥濘の地だ。
空から降りてくるのは、雨というにはあまりに粘り強く、霧というにはあまりに重い、ベタベタとした湿気の塊だった。砂漠のシナモン砂は水分を吸い込み、そのまま溶かしたような泥沼と化している。
「あぅ……ソル、足が抜けなくなっちゃった……」
カロンが情けない声を上げ、泥に沈んだ右足を指さした。大きな修復師のエプロンはすでにシナモンの泥まみれで、彼女の琥珀色の瞳には、旅の疲れが滲んでいる。
「……だから言っただろ。お前にはまだ早すぎると」
ソルは溜息をつきながらも、迷いなく泥の中に足を踏み入れた。彼はカロンの腰を軽々と抱き上げると、自分のマントの上に彼女を座らせる。そして、指先をパチンと鳴らして、周囲の泥を瞬時に焼き固めた。
「ソル、歩きにくいのにごめんね……。でも、チュロじいなら、きっとレシピのこと知ってると思うんだ。おじいちゃんの日記に書いてあったもん。『困った時は、砂漠のチュロに聞け。あいつの舌は、俺よりもレシピの味を覚えている』って」
チュロじい。本名をチュロス・カネル。かつてカロンの祖父と共にアンバー工房を支え、その「星型の剣」のような真っ直ぐで硬いチュロスで、国のあらゆる湿気を跳ね返してきた伝説の職人だ。
「……あの偏屈な棒切れが、まだ生きていればの話だがな」
ソルは毒づきながらも、カロンを背負い直して歩みを早めた。彼もまた、幼い頃に工房でチュロじいに何度も、火が甘いと叱られた記憶があった。砂漠の中央、かつてはオアシスだったはずの場所には、しおれたチュロスの木々が並んでいた。その中心で、一人の老人が地面にへたり込んでいた。
「おお……ああ……、わしの、わしの自慢の角が……」
それは、あまりにも無惨な姿だった。 かつては鋼鉄よりも硬く、天を突くほどに真っ直ぐだったチュロじいの体は、今や湿気でU字型に折れ曲がっている。トレードマークだったピンと張った髭も、シナモンシュガーが溶けてドロドロになり、地面に張り付いていた。
「チュロじい! 私だよ、カロンだよ! おじいちゃんの孫の、カロン!」
カロンがソルの背中から飛び降りて駆け寄る。チュロじいは、ふにゃふにゃになった瞼を辛うじて持ち上げた。
「……おお、カロン様……。それに、生意気な火の小僧か……。見てくだされ、この情けない姿を。湿気のせいで、わしの『カリカリ・ステップ』も、もう踏めませぬ。これではただの、湿った揚げパンの成れの果てじゃ……」
チュロじいは、ベタつく髭を震わせて溜息をついた。その溜息さえも、湿った蒸気のように重い。
「チュロじい、元気出して! 私、おじいちゃんの宝箱から見つけたレシピを完成させに来たの。これ、見て!」
カロンがレシピを差し出すと、チュロじいの濁った瞳がわずかに見開かれた。
「これ、これは……。アンバー様とわしが、かつて夢見た……『守護のフロランタン』の断片……。しかし、これを作るには、常軌を逸した『硬さ』と『熱』が必要じゃ。今のわしの体では、味を確かめることすらできぬ……」
「わかった。じゃあ、まずはチュロじいから直してあげる!」
カロンは力強くエプロンの紐を締め直した。
「ソル、お願い! おじいちゃんを一番いい温度で温めて!」
「……勝手なことを。だが、このままじじいの泣き言を聞かされるのも真っ平らだ」
ソルは一歩前に出ると、周囲の霧を焼き払うほどの巨大な魔火を掌に生み出した。青い炎がチュロじいを取り囲む。カロンは、工房から持ってきた最高級のキャラメルを小鍋で溶かし、そこにシナモン砂漠に残っていたわずかな「乾いた砂」を混ぜ合わせた。
「おいしくなーれ! シャキッと、真っ直ぐに、おいしくなーれ!」
カロンが唱えると、煮え立つ琥珀色のキャラメルが、チュロじいの折れ曲がった背中と、しなしなになった髭に塗り込まれていく。 ソルの熱と、カロンの修復術。 二つの力が混ざり合った瞬間、キャラメルが一気に固まり、バキバキと音を立ててチュロじいの体を矯正していった。
「おおお……!背筋に、力が、戻ってくる……!熱い、熱いぞ!これぞアンバーの火じゃ!」
数分後。そこには、黄金のキャラメル装甲を纏い、岩よりも硬く、月まで届きそうなほど真っ直ぐに背筋を伸ばしたチュロじいが立っていた。髭は再びシナモンシュガーの結晶で輝き、ピンと尖っている。
「……ふん。少しはマシな顔になったな、じじい」
ソルは鼻を鳴らして火を消した。
「はっはっは! 感謝するぞ、カロン様、ソル! 見てくだされ、この輝きを!」
チュロじいは自慢の髭を撫で、軽快に地面を叩いた。サクッ、サクッ、と乾いた良い音が砂漠に響き渡る。
「カロン様、アンバー様の孫よ。このレシピの続きは……確かにわしの記憶にある。だが、レシピを完成させるには、キャラメルを固めるための『極致の冷気』が必要じゃ。この湿気を一瞬で凍らせるほどの冷たさがな」
チュロじいは、北の空を指差した。
「北にある『冷蔵庫シェルター』。そこに、湿気から逃れた冷たいお菓子たちの王がいる。その王が持つ『冷気の鍵』がなければ、このレシピの最後の工程は越えられぬ」
「冷蔵庫シェルター……。わかった、そこに行けばいいんだね!」
カロンが意気揚々と歩き出そうとしたその時。チュロじいが感動のあまり、カロンの手を握ろうと身を乗り出した。
「ああ、カロン様、本当にありがとうございます! このチュロ、一生あなたに付いていき……」
「――おい」
ソルの手が、チュロじいの胸元を無造作に突き放した。 ソルはカロンの前に立ちはだかり、冷たい目で老人を射抜く。
「礼なら言葉だけで十分だ。カロンの手は、修復のためにある。お前の油ぎった手で触れていいものじゃない。……それ以上近づくなら、今度は全身を炭にしてやるぞ」
「ひっ、相変わらず怖い小僧じゃ……。カロン様、道中は気をつけてくだされ。ソルの嫉妬の火で、お菓子が焦げないようにな!」
「チュロじい、またねー!」
カロンは元気に手を振り、ソルの後ろをついていく。ソルは不機嫌そうに黙り込みながらも、カロンが歩く道に落ちている小さな石や段差を、さりげなく魔法で平らにし続けていた。
二人の目的地は、極寒の北の大地。そこには、自分以外の存在を許さない、孤独で冷徹な「チョコの王様」が待ち受けていた。




