プロローグ:琥珀の修復師と、湿りゆく世界の終焉
世界から「音」が消え始めて、もう三ヶ月が経つ。 かつてお菓子の国・シュカレは、軽やかな音に満ちていた。ビスケットの石畳を踏めば軽やかにサクッと砕ける音がし、風が吹けば飴細工の風鈴が涼しげに鳴る。しかし、正体不明の「湿気の霧」が立ち込めてからというもの、すべてはベタベタとした沈黙に飲み込まれてしまった。
街のマシュマロ街灯は溶け落ちたように項垂れ、広場の砂糖水の噴水からは粘りつくシロップが溢れている。人々は、自分たちの体がいつか形を失い、泥のように溶けてしまうのではないかという恐怖に怯えていた。
そんな絶望の霧の端っこ、小さな丘の上に建つ「アンバー修復工房」だけは、まだ微かな熱を保っていた。
「……うう、まただ。ねえソル、見て。せっかくのフロランタンが、もう『ふにゃふにゃ』になっちゃった」
工房の主、カロン・アンバーは、自慢のキャラメル色のポニーテールを揺らして頬を膨らませた。彼女の目の前には、数分前に焼き上がったばかりのフロランタンが、無残にも湿気てひん曲がっている。 カロンは、亡き祖父から工房を継いだばかりの「修復師」だ。といっても、まだ幼い彼女にできるのは、壊れたクッキーをキャラメルで繋ぎ合わせたり、湿気たパイを温め直したりする程度の、ささやかな魔法だった。
「当たり前だ。これだけの湿気だぞ。お前の『おいしくなーれ』なんておまじないが、天候に勝てるわけがないだろ」
工房の隅で、腕を組んで鼻で笑ったのは、ソルの名を持つ少年だった。彼はカロンの祖父が遺した「使い魔」であり、この工房の火を守る番人だ。銀色の髪に、冷徹なまでの青い瞳。彼は指先からパチンと火花を散らすと、カロンの近くの薪ストーブに青い魔火を放った。
「むー! ソルはいつも一言多いんだから! でも……ソルの火がないと、キャラメルも固まらないもんね」
カロンは少しだけしおれると、作業台に置いてある「琥珀の宝箱」を愛おしそうになでた。祖父の形見であるその箱は、湿気の霧のせいで表面のキャラメルが白く濁り、至る所にひびが入っている。
「これ、おじいちゃんが『本当に困った時に開けなさい』って言ってたんだ。今がその時だと思うんだよね」
カロンは、ソルの青い火で熱したキャラメルを手に取った。修復師としての勘が、彼女の指先を動かす。ひび割れた琥珀の隙間に、黄金色の液体を流し込んでいく。ソルは無言で、しかしカロンの作業が決して妨げられないよう、工房の湿度を魔法で抑え込みながら、彼女の背中を見つめていた。
「よし……できた! 固まれ、固まれ……おいしくなーれ!」
カロンが祈るように手をかざすと、宝箱のひびが嘘のように消え、鏡のような光沢が戻った。その瞬間、箱の底から『カチリ』という乾いた、久しく忘れていた音が響いた。二人の運命を、そして溶けゆく世界の救い方を変える「伝説のレシピ」が目覚めた瞬間だった。




