龍神様の花嫁
龍神様のお社は、とても清浄なところだった。
山の中にあるはずなのに周囲は海の底のように青く輝き、空には無数の魚が泳いでいる。風景には水を通して見るような揺らぎがあるのに息苦しさはなく、歩くときの抵抗感もない。何とも不思議な光景だ。
絵巻物の竜宮城が本当にあったなら、きっとこんな光景なのだろうと思う。
ぼうっと景色を見ていたせいで気付くのが遅れたけれど、いつの間にやらわたしの着物が死装束同然の味気ない白無地から、刺繍が美しい白無垢になっていた。しかも髪まで結い上げられていて、これまでの人生でつけたことどころか見たことすらない綺麗なかんざしまでついている。指先でそっと触れただけで崩れてしまいそうなほど繊細な、銀細工と青い宝石のかんざしだ。
周りの景色が水槽の壁のようにわたしの姿を映してくれているお陰で着物や髪型が見えたのだけれど、いつ変わったのかは全くわからなかった。
これも龍神様の権能なのだろうか。
「あまりよそ見をするな」
「し、失礼致しました」
信じ難い出来事が次々起こってぼうっとしていたら、龍神様の不機嫌そうなお声が降ってきた。
輿入れ先のお社をじろじろ眺め回すなんて不躾が過ぎたと頭を下げると、わたしの肩に大きな手のひらが触れた。怖々と顔を上げたわたしの視界に、人成らざる美貌が迫る。
咎められたわりに、わたしを見つめるお顔はとても優しい。
「そうではない。お前は私だけを見ていれば良い」
「っ、は……はい」
嫁入りとは名ばかりの生け贄だと思っていたのだけれど、もしや本当にお仕えすることになるのだろうか。それならそれで、女中たちに仕込まれた知識や技術が此処で役立てるのだから何の問題もないと思う。あとは人里の女中仕事と神様へのご奉仕が同じであることを祈るばかりだ。
ところでと、龍神様がわたしを見下ろす。
「あの痴れ者はお前の妹であったな」
責めるような口調ではないのに、ぎゅっと心臓が縮む心地がした。
「はい……先ほどは大変ご無礼を致しました」
「お前が謝ることはない。斯様な些事は過去に幾度もあった。そしてその後の運命もまた、同様である」
龍神様がなにを仰りたいのかわからず、首を傾げる。
前半はわかる。自分こそが神様の花嫁になるのだと言った人がいたということだ。言葉通りに。でも、その後の運命とはいったいどういうことだろう。引き出物扱いで木箱に詰められたのは見たけれど、その先になにがあるのか。
そんなわたしの思考もお見通しとばかりに、龍神様がフッと微笑む。
「屍肉神は活きのいい女の肉を好む荒神なのだ。あれは良い供物になる」
「そ、れは……」
最早、末路の答えに等しかった。
龍神様とその領域は穢れを嫌う。けれどシシ神様は穢れをこそ好む。
だから今回のようなことがあると、毎度引き出物と称してシシ神様に送っていたと龍神様は仰った。我こそが花嫁に相応しいと乗り込んでくるような娘は活きが良く、シシ神様の好みにとても合っているからたいそう喜ばれるのだとか。
「では、嫁入り後に山が落ち着く理由というのはもしや……」
「我の領域は天であるゆえな」
言われてみればそうだ。
龍神様は雨を司る神様でいらっしゃるのだから、雨乞いならともかく、荒れた山を鎮めるために龍神様の元へ花嫁を送るなんて辻褄が合わない。
本来は、シシ神様の元へ活きのいい娘を送るための儀式だったのだ。
龍神様へ輿入れするという栄誉を餌に、本来の花嫁を押し退けてでも自分が花嫁の枠に収まろうとするような、我の強い女を与えるために。
妹は、自分から飛び込んでしまったのだ。先祖代々受け継がれてきた釣り餌に。
「これまでの花嫁は皆、疑似餌ゆえに事が済めば送り返してきた。嫁入りの儀は山を鎮めるためのものであって、雨乞いではないのでな」
「では、わたしのお役目は……」
「ふ、今更帰すと思うか?」
これまでも送り返してきたようだし、シシ神様にお静まり頂くのが目的なのだからわたしは不要なのではと思えば、龍神様は花のかんばせをほころばせて囁く。
「生涯我と共にあれと契ったばかりであろう」
とろけるような声が鼓膜を擽り、わたしは迷いなく頷いた。
「持たざる花嫁よ。お主が唯一持ちうるものを、我に差し出すと申したであろう」
龍神様は、なにもかもご存知だった。
わたしにはなにもないとわかって、その上でわたしを選んでくださったのだ。
ずっと理不尽に奪われるばかりだったわたしが、初めて自ら全てを差し出したいと思えた瞬間だった。龍神様が望まれる限りお側にいよう。何処にも行かず、わたしの生涯全てをかけて花嫁としてあろう。
「龍神様。先の誓いの言葉に偽りはありません。不束者では御座いますが、どうか、末永くお側に置いてください」
龍神様が笑みを深めた。
鋭い虹彩を持つ目が、弓なりに歪む。微笑一つでさえうっとりするような美貌だ。わたしの頬に触れる手は冷たく、人のような体温はない。
だが寧ろそれがとても心地よく、ずっと触れていたいとさえ思う。
「良い子だ。さあ、参ろう。我の花嫁。その身も魂も、全てが我のものだ。永久に、永久に、我だけのものだ」
歌うような声を聞きながら、わたしはお社の深いところへ共に進んだ。
戻る道など最早何処にもなく、必要ともしない。
深海のようなお社で、龍神様のお側で、身も心も全てを龍神様に捧げたわたしは、永久になにを奪われることもない生涯を送るのだった。




