第9話
「今朝、夢に兄ちゃんが出てきた」
自分だけ平凡であると気づいてしまった透は、すぐに話題を変えた。
「その話、していいの?」
ストローをいじっていた愛華の指先がぴたりと止まり、目が合った。
今度は透が笑った。
「どうしてそんな顔をするんだよ」
「どうしてって、どうしてもだよ。何か悪い?」
スイッチを切れたように、声に覇気がなくなった。
思えば合流したときから、愛華は様子が変だ。いつもどおりの雰囲気を、意識して作っているようだった。
「やっぱりフラれたんだろ?」
「ちがうってば」
「なら喧嘩した?」
「してない」
彼氏が関係していないことなど、透は端からわかっていた。今の愛華は、別に機嫌が悪いわけではない。むしろ逆だ。透の機嫌を窺っている。
しかし透にしてみれば、愛華に機嫌を窺われることほど、居心地の悪いものはない。だから彼氏を引き合いに出して茶化し、この湿っぽくなりかけた空気を変えようとしたのだ。
ところがいくら透が働きかけても、愛華は神妙な表情を変えなかった。
あのさ、と居住まいを正した愛華が言う。
「聡くんのこと、無理に話さなくていいよ。保護者面してるけど、うちは保護者じゃないし。正直、聡くんにはたくさん遊んでもらったし、詳しいことは知りたいけど。でも、今すぐじゃなくていいよ」
「別に無理じゃないって。話すことぐらい、なんてことない」
透は語気を強め、心にもないことを言った。今兄のことを話せば、自分を深く痛めつけるとわかっていた。それでも、痛めつけないと気が済まなかった。
このままのほうが、よほど痛い気がしたのだ。血がとめどなく流れる傷口より、塞がりかけた傷口のほうが痛いように。
だが、愛華はそれを許さなかった。
「ううん。今はまだ、やめておこうよ。歳とってからでもいいじゃん。うちらの腐れ縁は、どうせずっと続いてるんだろうし」
「続いている保証なんてないだろ」
「それはそうだけど。たぶん大丈夫でしょ」
大丈夫という言葉を、透はもう聞きたくなかった。大丈夫なことなど、本当は何ひとつない。
兄はもう現れないし、透はきっと一生兄の夢を見続ける。
毎晩夜風に吹かれ、寝不足の体を引きずって働き、味のしない食事をとる。そうして命が燃え尽きるときを、ひたすら待つのだ。
「勘弁してくれよ。もうたくさんだ」
「何それ。うちに言ってる?」
ちがう。愛華に向けた言葉ではなく、腹にわだかまる苦しさの元凶に向けた言葉だった。
だが臨戦態勢に入った愛華に対して、透は追い打ちをかけるように言葉を重ねた。
「そうだよ。年取ってまで、お前と仲良く幼なじみごっこをやってる自信がないんだ。今日だってお前の都合で急に呼び出してきて、俺は便利屋かよ」
「は? そんなこと思ってないし」
愛華は声を尖らせた。
「自分でわかったって言って来たくせに、今更文句を言うわけ?」
「断ったらお前、どうせ癇癪を起こすだろ。我儘なのを直さないから、結局男にフラれるんだよ」
壊す気など毛頭ない大切なものを、自ら壊しにかかっていた。だが苛立っている透は、もうあとには引けなかった。
「そもそもどうして俺が毎度毎度、不機嫌になったお前の話を聞かなきゃいけないんだよ。俺はお前のご機嫌取りじゃないんだけど。昔はそんなふうじゃなかったよな。見た目も中身も、もっとまともだった。男の話しかしないようなやつじゃなかった」
愛華は唇を噛み、音を立てて席を立つと、鞄を掴んで店を出ていった。立ち上がった拍子に倒れたドリンクには、一瞥もくれなかった。
透は荒々しく地を踏む低いヒールを目で追い、やはり今日の愛華は変だと思った。
前に履いていたピンヒール、買ったばかりでお気に入りだと言っていたのに。
横倒れになったドリンクは蓋が取れ、赤くドロドロとした液体がテーブルのふちを伝い、床に滴り落ちていた。
*
その夜、2本目の電話が掛かってきた。
寝つくことができずに、天井の模様を見ていた透は、着信音に飛び起きた。緊張しつつ画面を確認したが、愛華の番号ではなかった。
「もしもし」
『あ、ああ君か』
例の男からの電話だった。
「こんばんは。バイトの話ですか?」
『そんな話もあったな』
その言葉に、透は違和感を抱いた。
まるでバイトの話が遠い昔にされたような口ぶりだが、ほんの数日前のことだ。
しかも、透としては大きな覚悟を持ってやると決めたことだ。忘れていたような男の雰囲気に少なからず不満を感じた。
「どういうことですか?」
『さあな。私が知りたいくらいだ』
男の発言は一向に要領を得ない。
『外に出て来られるか。今、駅にいるんだが』
「はい。出れますけど」
『家の近くに何がある?』
透は家から歩いて10分ほどの場所にあるコンビニの名を言った。あそこは24時間営業であるためこの時間でも明るく、人がいる。
スウェットの上からパーカーを引っ掛けて家を出た。
コンビニの外で待っていると、しばらくして亡霊のように青白い顔をした男が現れた。
透は思わず、挨拶も忘れて聞いた。
「またですか?」




