第8話
兄がいれば、父も戻ってくるかもしれない。そうしたらすべてが元通りだ。すべてが透の望んだとおりになる。
透は想像した。眠たい朝、兄に揺り起こされる。しぶしぶベットから抜け出し、階段を降りると、1階はコーヒーの匂いが漂っている。ダイニングテーブルには父と母の姿があり、他愛もない会話をしながらあたたかい朝食を摂る。
透は身支度を済ませ、兄とともに大学に向かう。途中で愛華に出くわし、上機嫌に挨拶をすると、驚いた顔をされる。兄に気づいた愛華はもっと驚いて、透はくすぐったさを覚えながら、2人のやり取りを見つめる。
「すべて嘘だったんだよ。兄ちゃんは生きてたんだ」と言って笑い合うのだ。
全身に鳥肌が立った。何かが膝小僧をぬるりと撫でたのだ。透は足元を見て、ぞっとした。
踝にあった水面が、知らぬ間に膝にかかっている。
呆然と見つめているうちにも、ぬるついた水は確実に透を飲み込んでいく。水位が上昇しているのか、それとも自分の身が沈んでいるのかわからない。
透は恐ろしさのあまり足の力が抜け、よろめいた。その拍子に腰が水中に飲み込まれ、肩までどっぷりと水に浸かってしまった。
咄嗟に後ろ手をついたため、腕が持ち上げられなくなってしまった。
重たい腕をがむしゃらに振り回していると、水はとうとう透の細い首に手を掛けた。
僕はこのまま死ぬのか。そう考えかけて、透は思い出した。自分はひとりではないことを。強力な味方の存在を。
「兄ちゃん、兄ちゃん」
呼びかけると、すぐに返事があった。
「透? 大丈夫か? 立ち上がれる?」
「無理だよ。動けない」
「わかった。大丈夫、兄ちゃんがどうにかしてやるから、少し待ってな」
その声だけで、透はひどく安心した。兄にできないことはないのだ。きっと、この状況もどうにかしてくれる。
水が顎先に到達した。影は先ほどから激しく動いていたが、透との距離は近づいていなかった。
しかし透は、急かすような言葉を掛けたくなかった。信じていないと思われたくなかった。
水が鼻のあたりまで届き、慌てて顔を上に向けた。
水中に埋まった耳が、兄の声を拾った。名前を呼ばれているようだった。
「ここにいるよ!」
どちらかが「大丈夫」と言った。水はついに顔を覆った。息苦しさを感じて、透は目を瞑った。濁った水の中では、開いても瞑っても同じことだった。
僕は死ぬんだ。ようやく兄ちゃんに会えたのに、今度は僕がいなくなってしまうんだ。どうしてだよ。どうして。
透の叫びは、いくつもの泡となって、のんびりと水面へ上っていった。
力を使い果たし、脱力する。そのとき、前触れもなく、縄のようなものが胴に巻き付いた。身に食い込むほどきつかった。
苦しさに顔を歪めると、途端に重力から解放された。誰かに持ち上げられているようだった。呼吸が楽になる。
ぼやけた視界に、黒い何かが見えた。
けたたましく音が鳴っていた。透は何とか腕を持ち上げ、音を立てているそれを掴んだ。
『もしもし。今どこ?』
「………………」
『透?』
「せっかく会えたのに、僕……」
『どうしたの?』
「愛華、生きてたんだよ。兄ちゃんが生きてたんだ……」
『寝ぼけてるの? 聡くんは亡くなったって、透がうちに教えてくれたでしょ』
歯切れの悪い声が、みるみるうちに透を夢から引きずり出した。透はスマホを放り投げてベットに仰向けになり、顔を覆った。喉が痛かった。
『今の何の音? 透? どうしたの?』
部屋の隅から愛華の焦った声が聞こえた。その声に、気持ちがいくらか宥められていくようだった。
透は汗が引いていくのを感じながら、わざとそっけなく尋ねた。
「何の用だよ」
『びっくりした。そうそう、暇だから電話したの。ちょっと付き合ってくれない?』
「どこに?」
『あとで教える。とりあえずさっさと身だしなみ整えて、大学の最寄り駅の改札まで来て。待ってるから』
「わかったよ」
*
愛華に連れて行かれたのは、駅の近くの有名なカフェだった。大学には、このカフェのロゴマークがついた飲み物を持っている人が必ずいる。
透は利用したことがなかった。洒落た雰囲気に気圧されてしまうのだ。
「レジの店員さん、イケメンだった」
愛華はテーブルに腰を落ち着けるなりそう言った。手には期間限定のスイカのドリンクがある。
透も愛華と同じドリンクを飲みながら尋ねた。
「フラられたの?」
「え? フラれてないしフッてないけど」
愛華は透の顔をまじまじと見つめてから、笑い出した。
「ちがうちがう、それとこれとは別だから。あの店員さんは目の保養。推しみたいなこと」
愛華の言うことが、透にはよくわからなかった。
だが、顔が良いと思う感覚はわかる。
あの不思議な男を見ると顔が良いなと思う。雪も派手だが顔は可愛い。亮太だって、黙っているとよく女子に声を掛けられるし、顔が良いのだと思う。
なんか、俺の身の回りはそんなやつばっかりだな。




