第7話
母や愛華が知れば、血相を変えて止めるだろう。
兄がいたら、絶対に叱られる。
兄の説教は穏やかだが、気が遠くなるほど長い。透は思い直し、一も二もなくバイトを断るだろう。でも兄はいない。
そうだ。見方を変えれば、これはまたとないチャンスではないか?
「苦しい仕事ですか?」
透の考えを知った者は誰でも、馬鹿げていると笑ったことだろう。
いや、まともな大人であれば、やめておきなさいと窘めたことだろう。
透は得体の知れないバイトを通して、兄の苦しさに近いものを味わえるのではないかと期待したのだった。
「保障はできないが、君が懸念しているようなことには」
「苦しい仕事ならやりたいんですけど」
被せるように畳みかけると、男はあっけにとられた顔をした。
得体の知れない生物を見るような目で凝視されたが、透は正面から見つめ返した。変人だと思われても、そういう性癖だと思われても構わなかった。
「……希望に沿うようにする」
「じゃあ、やります」
「よし」
電話番号を求められ、透は勢いのまま教えた。スマホを握る手が少し震えた。
透の番号を登録し終えた男がスマホをポケットにしまうと、なんとなく解散する雰囲気が漂う。
おざなりな会釈をし、踵を返した透の背中に「おい」と声が掛かった。
まだあるのか、と文句を言いたくなる。
透はすでに疲れていた。男と違い、今日も寝不足なのだ。早く家に帰って、ベッドに入りたかった。
「来い」
「はぁい」
透はお預けを食らった子どものような、ふて腐れた声で言った。
男を追って向かった先は、道路の脇に止まっているキッチンカーだった。どうやらパンを売っているらしい。近づくと、焼けた小麦の匂いがした。
「好きなのを選べ。私が払う」
男が仏頂面のまま言う。透は戸惑いつつ、男に言われた通り、パンを1つ選んだ。
正直、どれでもよかったので、1番売れているらしいメロンパンに決めた。
「これを2つください」
男は透と同じものを店員に注文した。人に合わせるようなタイプには見えないので、意外だった。若い店員は怪訝そうな顔をしてから、お金を受け取り、男にパンを2つ渡した。
男はそのうちの1つを透に渡し、「食べな」と言った。兄を彷彿とさせると言い方で、内心どきりとした。
「今にも倒れそうだ」
相変わらず平坦な口調だったが、そこはかとなく同情の空気を感じた。
透は気恥ずかしさを感じて、パンを包み紙から剥がすことに夢中なふりをした。
メロンパンは薄黄色の表面をザラメで輝かせていた。1番売れているだけあって、完璧な見た目だ。
期待を込めて噛りつく。「美味しい」という言葉が挨拶のように出た。
「日付が決まったら連絡する」
男が言った。透は味のしないメロンパンを口に詰めながら、頷いた。
*
濁った水の中に、両足を浸していた。
水は粘度が高く、スライムのようで、足を持ち上げようとすると、重たく絡みついてくる。もがいても息が切れるばかりで、まったく抜け出せない。
そもそも、ここはどこだろう。首を限界までひねってみたが、掴まれそうな板切れひとつ、見つけられなかった。ただ鬱陶しい水が、どこまでも広がっていた。
足を1本取り出せたところで、次はどうするのか。透はまったく意味のない時間を思い返して、深いため息をついた。
幸いなことに、途方に暮れる時間はそう長くなかった。そう遠く離れていない距離に、人影が現れたのだ。
考えすぎでなければ、とても見知った形をしている。
「なんでここにいるの」
自分の気持ちがわからなかった。いくつもの感情が複雑に混じりあい、押しつぶされて、なぜか責めるような口調になった。
「わからない。でも、また会えて嬉しい」
影がふわりと揺れる。姿ははっきりと見えないが、やさしい顔をしているに違いなかった。
「僕もうれしいよ」
我ながら、ふて腐れた子どものような声だった。くつくつという笑いが、心地いい。
透は兄に笑われるのが好きだった。自分がすごく面白い人間である気がするのだ。
勢いづいて、ずっと言えずにいた言葉を口にした。
「どこに行ってたの。ずっと。大学生になっちゃったよ」
「もう大学生? 早いな」
「早いよ」
兄がいなくなってからの出来事が、頭を駆け抜けた。
両親が離婚し、透は母とともに他県へ引っ越した。詮索してくる人々の目から、逃れるためだった。
転校先の中学では、それなりに話せる友達ができたものの、心から馴染むことはできなかった。
まるで別の誰かの人生を生きているようだった。
兄も過去に思いを馳せているのだろうか。しんみりとした空気が、2人の間に流れた。
「兄ちゃんは、やり残したことがたくさんある。透とやりたかったこと、行きたかったところ、たくさんあるよ」
掠れた声だった。どんな表情をしているのだろう。透は目を凝らしてみたが、影は影だった。
「今からでもできないの?」
透がそう言うと、影が震えた。凝視していなければ気づけないほど、小さな震えだった。
「ようやく会えたんだし、やり残したことを全部やろうよ」
そうだ。これから、兄とまた一緒にいられるのだ。
実感するにつれて、かつてないほど気分が高揚した。
特別なことをしなくても構わない。ただ、あの頃のような日々を送ることができればいい。




