第6話
「こわいニュースばっかりでいやになっちゃう」
雪が神妙な面持ちで言う。つられたように亮太も声を落とした。
「それ俺も知ってる。殺人事件だろ。どこだっけ」
「〇〇県の△△市だよ」
雪が名前を挙げた地名は、透もよく知っていた。兄のことで引っ越す前、暮らしていたあたりだ。
数年のうちに、そこまで治安が悪化しているのかと、複雑な気持ちになる。
「犯人はまだ捕まってないらしいよ。こわいなあ」
「ふざけるなって話だよな。ここまでは来ないことを願いたいぜ」
「そうだねえ」
雪は呑気な声でそう言ったが、表情は曇ったままだった。知り合って間もないが、彼女はこういうところはよく目についた。
表情と声音、または表情と言葉が、ボタンの掛け違いのようにずれている。
*
課題に使う本を借りるため、自宅の最寄り駅にある図書館に向かった。大学図書館では、目的の本はすでに貸し出されてしまっていたのだ。
自動ドアを通り抜けると、本の独特な匂いに包まれた。この図書館の存在は把握していたが、訪れるのは初めてだった。
こういう機会でもなければ、訪れることはなかっただろう。
探し物が苦手な透は、かなりの時間、書架の間を彷徨い歩いた。図書館員に尋ねてみることは、端から選択肢になかった。
探していた本は、フロアの奥まったところにある棚の、1番上段にあった。
手を伸ばす前から結果はわかっているので、大人しく近くにあった踏み台を借りた。
目的の本を手に取ったところで、人の気配を感じた。通り過ぎるわけでもなく、透の真後ろで止まっている。
不思議に思い振り向くと、驚いたことにそこにいたのは、この前バス停にいた男だった。
「やはり君か」
男も言葉には、どこか深い響きがあった。何か壮大な言葉が続きそうだった。
透は《《こそばゆい》》予感と、そんな予感をした自分に戸惑って、突き出すように頭を下げた。
「どうも」
「偶然だな。また会うとは思っていなかった」
「ですね」
踏み台に乗っているため、目線が近い。透は気まずくなり、踏み台から下りた。
「それ、借りるのか」
「はい。借ります」
「そうか」
会話が途切れ、誰かの咳払いや椅子を引く音が、にわかに大きくなった気がした。
俯くと、つむじに男の視線を感じる。煙が出そうなほどだった。
「じゃあこれ、借りてくるので」
「ああ」
透が逃げるようにカウンターに向かうと、なぜか男もついてきた。
どうしてついてくるんですか、と囁き声で尋ねても、男は無言で透を見下ろしている。何を考えているのかさっぱりわからない。
カードを作り、手続きを済ませ、図書館を出ると、ようやく男が口を開いた。
「悪夢を見なくなったんだ」
透は驚いて男を見上げた。
「本当ですか?」
言われてみればこの前より心なしか、顔の血色がいい。髪も整えられているし、髭も剃ってあった。
こうしてみると、思いのほか若い。20代後半から30代前半、といったところだろうか。強面だが二枚目だ。
「すがすがしい目覚めだった。驚くほど体が軽かった。ひさしぶりに朝飯を作ろうと思って、ご飯を炊いて、みそ汁も作った。目玉焼きは焦げてしまったが、美味かった」
男は余程嬉しかったのか、ここ数日間のことを事細かに話した。
溜めていた洗濯や掃除をしたこと。片付いた部屋は気持ちよかったこと。もともと綺麗好きだったのを思い出したこと。
男の生活事情を延々と聞かされるのは、不思議と退屈ではなかった。話を聞くにつれて、見かけによらず繊細な内面に、親しみを感じた。
一方で、透は自分の生活を振り返らざるを得なかった。
部屋は畳んでいない服や皺の寄ったプリント、食べ終わったカップラーメンのゴミなどで散らかっている。
もちろん足の踏み場などない。
最後に朝ごはんを食べたのはいつだろうか。
思い返しても、1人暮らしを始めてから、食べた記憶が一切ない。だとするともう2か月近く、食べていないことになる。
それ以前は実家暮らしだったため、母が用意していたものを食べていた。残すと叱られるので、食欲がなくとも口に詰め込んだ。
食事は一種の作業だった。美味しいと感じたのは、遡れないほど昔のことになる。
「君は変わらずか」
「変わらずです。夜中に必ず目が覚めます。そうするとなかなか眠れなくて」
眠れずに体を横たえていると、時間の流れが遅く感じる。
水を飲み、ベランダで夜風にあたっても、1度失われた眠気はなかなか戻ってこない。
せめて体だけでも休ませておこうと再び横になるが、夜の静けさは言いようのない不安を掻き立てる。
気を紛らわすために、スマホから適当な音楽を垂れ流しつつ天井を見つめていると、やがて空が明るくなる。
「そうか」
男は短く相槌を打ち、用意していたような間で、こう切り出した。
「急な話だが、バイトをしないか。金はいくらでも出す」
透は揶揄われているのではないかと疑った。あまりにも現実味のない台詞だったからだ。だがこの男、少しも笑わない。
透はとりあえず、もう少し話を聞いてみることにした。
「何をするバイトですか?」
「簡単に説明するのは難しい。やるというなら詳しく話す」
「いつからですか? 今から、とか言われるとさすがに厳しいです」
「まだ決まっていない。急に決まるかもしれない。単発かもしれないし、長期になるかも知れない」
そんなデタラメな求人、聞いたことがない。しかも金をいくらでも出す仕事など、絶対にまともではない。
透は不安になった。
少し前の俺の判断は、果たして正解だろうか。この男は見た目通りの人間ではないというのは、本当だろうか。
生活事情のくだりは、透を油断させるために作った嘘ではないだろうか。




