第30話
あいつはあの日以降、様子が変になった。
元は社交的な性格だったのに、学校へ行くことが日増しに少なくなり、家から出なくなった。ついには自分の部屋からも出てこなくなった。
たしかに俺たちは外に出ると、当事者だけが気づける程度に、薄っすら腫れ物扱いをされていた。
だが学校では普通に接してくれる奴のほうが多かったし、表向きにはあいつは無関係だということになっていた。
なぜお前が人の目を気にするのだと、当時の私は疑問だった。
あいつの部屋からは昼も夜も話し声がした。母は友達と通話しているのだろうと言ったが、私は納得がいかなかった。
部屋から漏れ出る声はどう考えても、気楽な相手と他愛もない話をするときに出るものではなかった。
父は最初こそ部屋のドアを叩き、学校に行けと叱ったものの、兄の意思が固いと知ると何も言わなくなってしまった。そのうち、兄に干渉すること自体を避けるようになった。
4月になると、私は隣の市にある普通科の高校に進学した。
あいつは部屋に閉じこもったままだった。と言っても、日中は部屋から出てくることもあるらしかった。家に帰ると流し台にあいつが使った食器が置いてあったり、洗濯カゴにあいつの脱いだ衣類が入っていたりした。
高校生活が忙しくなると、私はあいつのことを気に留めなくなった。
夕食の席で母がその日のあいつの様子を逐一報告してくるのを、父と私は無言で聞いた。
聞き流していた、といったほうが正しいのかもしれない。私は母の話が途中でも、食べ終わった時点で席を立った。
部活や勉強で疲れていた私は、隣の部屋の声など意識する間もなく眠りについた。
2年後、高校を卒業した。
音楽よりも文学に興味が傾いていた私は、この大学の文学部に進学した。それと同時に家を出て、大学の近くで1人暮らしを始めた。
長期休みには実家に帰ったが、あいつと顔を合わせることはなかった。
母から涙声で電話があったのは、大学2年の夏のことだった。母曰く、あいつはある朝、突然部屋から出てきたそうだ。
驚愕で固まる両親の前を通り過ぎて顔を洗い、朝食を食べ、よそ行きの服に着替えると「出かけてくる」と言い残して、外へ出ていったらしい。
その日から、あいつは何事もなかったように両親と食卓を囲むようになった。母は電話口で大袈裟なほど喜び、父も安堵しているらしかった。
あいつが就職したと母から知らされたのは、秋の終わりのことだった。
その年の年末、実感に帰省すると、聞いていた通りの快活なあいつがいた。それからは、折に触れて連絡を寄こしてくるようになった。
だが今年の春になって状況が一変した。ちょうど軽音サークルに、あいつを紹介した直後のことだった。イベントに向けてボーカルを探していたから、ちょうどいいと思ったんだ。あいつも乗り気だった。
元に戻ってしまったのは突然のことだった。
いや、むしろ前よりも悪化していた。あいつは宙に向かって「俺じゃない」と繰り返し呟いていた。そして必ずと言っていいほど、続けて私の名前を出した。
私は誰に何のことを話しているのか、ようやく理解した。そして早急にどうにかしなければならないと思った。あいつの様子があまりにも危うく見えたんだ。
悪夢を見るようになったのはそのあたりからだった。血塗れになって死んでいくあいつの笑い声が耳に残って、私は眠ることが嫌になった。
そんなとき、君と知り合った。
君はあのとき助けてくれた高校生によく似ていた。だが図書館でカードを作ったときに名前を見たら、彼とは苗字が違った。だから、彼とはまったく関係のない人だと思った。その方が私としては都合がよかった。
彼によく似た君をあいつに会わせてみたら、何か変化があるかもしれない。うまくいけば正気に戻るかもしれないと思った。馬鹿げた考えだったが、バイトに誘った当初の目的はそれだった。
だが会わせる前にあいつは姿を消した。数日経って電話が掛かってきた。開口一番、あいつはこの世の終わりみたいな声で言った。
「やっちまった……」
「何をだ?」
「人をだ……やっちまった、間違えたんだ、あの男かと思った」
「それは得意の軽口か」
「そんなんじゃねえ、マジの話だ……」
「今、どこにいるんだ」
「言わねえ……どうせチクるだろ」
そのつもりだった。逃亡に手を貸す気など毛頭なかった。
だがそう伝えたら、この男は2度と連絡をしてこないだろうと思った。
性格上、おそらく両親には連絡を入れていないだろうと推測した。
こんなときに連絡を取る相手が他にいるかは知らないが、このまま連絡を絶って野放しにしては、再び人を襲うかもしれない。
私はそう考え、自首しろとは言わなかった。電話を切らせないために、逃亡を手伝う気があることを匂わせる発言もした。だが向こうも警戒心が強く、簡単には居場所を話さなかった。
結局、「また掛ける」と言う言葉とともに、電話は切られた。
私はすぐに、高校時代の部活の先輩に連絡をとった。先輩の従兄は警察官だった。その人に事情を話すと、上に掛け合って捜査に協力させてくれた。
そこからあいつと連絡を取っては、その内容を警察に伝えるようになった。
君とコンビニで落ち合った日も、本当は警察に電話を掛けたつもりだった。バイトの件は頭から消えていた。
あいつに会わせられる状況ではなくなったことを伝えなければならないと思い、君と会った。
さっきも話した通り、話していくうちに君があの高校生の弟だと確信した。そこで、あいつが最初の通話で話していた言葉が頭をよぎった。
「あの男」というのは、君のお兄さんのことを言っているのではないかと気づいたんだ。あいつのうわ言のように呟きもおそらく、君のお兄さんに向けてのものだったからな。
あいつがもし君を見つけたらどうするだろうと考えると、いてもたってもいられなくなった。事が解決するまで目の届く場所にいてほしくて、君を連れ回した。
食事も睡眠も車内で済ませたのは、人が多い場所に行くのに抵抗があった私の勝手な都合だ。どこにあいつが紛れているかわからないと、ひどく神経質になっていた。
冷静に考えれば、私と共に行動する方がよほど遭遇する危険性が高いというのにな。
あいつは何度か居場所を口にしたが、毎度、私がそこに着く頃には既にどこかへ姿を消していた。君と車で移動していた間、延々とそれを繰り返していたのだ。
それであいつが捕まったら、今度は君が行方不明になった。
気が気じゃなかった。だから数週間前に大学で姿を目にしたときは、幻を見ているかと思った。




