第3話
今日、透がまともに会話をしたのは、愛華を除けばたった1人だ。だが、と透は首を傾げた。
「お前、あの講義受けてたっけ?」
「受けてないわ。入学して何回講義やったと思ってんの。いい加減、被ってる授業くらい覚えなよ」
呆れたように言われたが、透にしてみれば、なぜ自分以外の時間割を覚えなければならないのかわからない。それにものを覚えること自体が苦手だし、面倒だ。
愛華は透の微妙な表情から言わんとしていることを察したようで、すぐに話題を戻した。
「で、たまたま通りかかって、透が捕まってるのを見かけたの」
「捕まるっていうより、助けられたけどな」
「助けられた? 何かあったの?」
保護者ムーブが始まりそうな予感に、透は「いや、まあ」と言葉を濁した。
「そうやって油断させてるんだよ。同じ手口で、いろんな男に声かけてる」
「いや、それはたぶん……」
「なに?」
黒く強調された目にきつく睨まれ、透は口を噤んだ。何を言っても、きっと余計に機嫌を損ねてしまう。
「去年のミスターコンでグランプリ獲った男も、この学年で1番実家太い男も、首席で入学した男も、みーんな鼻の下伸ばしてて正直ショックだったわ。かわいそう、騙されてるとも知らないで」
「騙されるって、お金を取られるとかそういうこと?」
透がそう尋ねると、愛華は一瞬、奇妙な顔をした。
「知らない。興味ないし」
「被害に遭った人がいるの?」
「知らないって言ってるでしょ」
愛華は顔を赤くし、「だいたいね」と早口でまくし立てた。
「あんな見た目、2次元でしか通用しないって。自分に自信があるんだか知らないけど、あきらかに浮いてるじゃん」
愛華はまるで親の仇とでもいうかのように、はっきりと嫌悪の表情を浮かべている。
雪は愛華に何をしたのだろう。八方美人だがやられた分はきっちり返す、透の知っている愛華はそういう人間だ。
「関わったらぜったい、面倒な事になるよ。うちの勘は当たるの、知ってるでしょ。それじゃなくても、巻き込まれがちなんだから」
「ただ普通に生きてるだけなんだけどな」
そう。生きていると、どこからともなく災いがやってくる。
「運が悪いんだよ。しかも今はぼんやりしてるし、余計に巻き込まれやすいんじゃない? 久しぶりに会ったと思ったら、めちゃくちゃ老け込んでて誰かと思った」
「そんなことない。俺は変わってない」
嘘だった。老け込んでしまったかは置いておいて、変わってしまったことは、自分でよく理解していた。どう変化したのかは、よくわからないが。
なにしろ、変わる前の自分がどんな風だったのか、あまり思い出せないのだ。
ほんの数年前のことであるのに。
「ううん、昔は違った。もっと『生きてる!』って感じだった。やんちゃで、近所の子としょっちゅう喧嘩してたじゃん。そのたびに聡くんに止められて、すごい怒られてさ。うちもたまに巻き込まれて、一緒に謝りに行ったこともあったしさ。覚えてない?」
「………」
長い沈黙が生まれた。自分が生んだ沈黙だということに、ゆっくり気づいた。
愛華はスマホに目を落とし、分厚いまつ毛で忙しなく瞬きを繰り返している。
「いつの話だよ」とか「やんちゃだったのはほんの数年間だけだろ」とか、そんな台詞が遅れて思いついた。
だが今更言うには間が悪く、躊躇われた。
*
高校卒業を機に実家を出て、大学から電車で数駅離れた場所にアパートを借りた。
家賃が安い代わりに、駅からそれなりに距離があるので、透はバスを利用している。
透は閑散とした改札を抜け、階段を下りながら、講義中に見た夢のことを考えていた。
あれは、兄が亡くなった時の記憶だ。
兄は透が中学1年生のとき、溺れた子どもを助けるために川へ飛び込んで亡くなった。子どもも助からなかった。
思い出そうとしても、当時のことはひどく曖昧に記憶されている。いつ知らされたのかも、そのとき何をしていたのかも思い出せない。
だから兄が死んだ夢を見るときは、決まって葬式の場面から始まる。
「聡くんは正義感が強く、誰に対しても平等に接するやさしい生徒でした。いい人間ほど早く亡くなってしまうとよく言いますが、本当に惜しいことでした」
兄の高校の担任だという男が葬式で両親に掛けたその言葉は、透には別の意味に感じられた。
「萩ちゃんはお兄さんと全く似ていないね」とクラスメイトに驚かれたことがあった。
萩原は父の苗字だった。
兄が亡くなるまで、透は萩原姓だった。
「うん。僕もそう思う」と返した。
自虐ではなかった。すんなりとそう思ったのだ。
「いいな。うらやましいよ」
クラスメイトの羨望の眼差しがくすぐったかった。
透はただ、兄の弟でいられることが嬉しく、誇らしかった。
なぜ死んだのが兄なのか。命の重さは皆同じというが、透は自分の命よりも、兄の命のほうが重いように思えてならなかった。
自分が兄の代わりになりたかった。
だが透は、真冬の川に飛び込む勇気など持ち合わせていない。
冷たさや深さに恐れおののき、助けられなかった場合のことが頭をよぎるだろう。
自分も死んでしまうかもしれないと考えて足がすくみ、子どもが溺れていくのを、ただ見ていることしかできないだろう。
兄がどれだけ冷たく苦しかったのか、透はよく想像する。
真冬の水道水を風呂桶に溜め、顔を浸し、息を止めてみたこともあった。しかし、限界まで苦しくなると泡を吐き出し、反射的に顔が浮いてしまう。
口が新鮮な酸素を取り込むと同時に、そうじゃないと喚きたくなった。
鏡に映る自分は、海苔のような前髪を垂らし、充血した目をぎょろつかせていた。
まるで化け物だと、透は思った。
兄がこれから歩んでいくはずの人生は、輝かしいものであるに違いなかった。
透はそのあたたかくやさしい光を受けて、幸せに生きていくはずだった。兄がいなくなってしまうと、透の人生は無色透明、空っぽだった。
透は葬式の間中、黙ったまま靴の先を見ていた。兄が高校に入学した際に買った黒いローファーは、透には大きく、歩くたびに脱げそうになった。
兄がどこかへ姿を消し、代わりにほんのりあたたかさの残るかけらのようなものが、透の前に現れた。つまんでみると白くて軽くて、あっけなかった。
透は夢でも見ているような心地で、それを壺の中にしまった。
母のすすり泣きが、遠くの方で聞こえた。
バス乗り場には、すでにバスを待っている人がいた。上下ともに暗い色の服を着た男だ。
直前までの考えていたせいか、一瞬兄に見えた。しかし近づいてみると、兄とはまるで別人だった。当たり前かと、ため息が漏れた。
透がすぐ傍まで来ても、男は気づかない様子で、ぼうっとどこかを見ていた。
その気になれば、片手で透の息の根を止めてしまえそうな、がっしりとした体格だった。
透が静かに圧倒されていると、ふいに男が振り向き、目が合った。
「ああ、なんだ」




