第29話
こんな顔をされて、誰が置いていけるっていうんだろう。
「……わかりました」
透はランに向き直った。おそるおそる離された腕を確かめるように軽く振り、拳を握る。
「殴ります」
ランは黙って両腕を広げた。いつでも来いということらしい。
透は躊躇いを振り切り、ランの上半身に拳を叩き込んだ。1発、2発、3発、4発――。
分厚い筋肉によって拳のほうがダメージを受けている感じが否めないが、透はひたすら拳を振るった。何日も行動を共にしていながら、ずっと秘密にされていたことが悲しかった。所詮その程度の関係なのだと、思い知らされたような気がして。
拳がひりひりと痛み、腕が重たくなってやめた。
「……終わりか?」
苦しそうなその声が耐えきれなかった。透は殴ったばかりの胸に顔を押しつけた。
「殴ってごめんなさい」
声を発すると同時に、押しつけた部分からシミが広がった。布地に吸い取られても吸い取られても、目尻は乾かない。
「一生許せないかもしれないです。俺は音楽やらないから知らないけど、命より楽譜を取るなんてわけわかんない……コピー取っとけよって思うし……兄ちゃんは、兄ちゃんはそんなことで死んだのかって」
「そうだ。まったくその通りだ。あのとき私が――」
「でも!」
透はランの言葉を強い口調で遮った。
「……でも俺、あなたが助かってくれてよかったとも思うんです」
ずずっと鼻水を啜り、透は続けた。
「兄ちゃんみたいに接してくれたの、嬉しかった。色んな話聞かせてくれて、たくさん気遣ってくれて、俺、ランさんに会えてよかった……」
あたたかい手が頭に乗る。その安心感に、透は声を出して泣いた。
「ありがとう」
低く優しい声が降ってくる。少し震えているのにつられて、余計に泣いた。
「色んな風景を見れて楽しかった。車中泊したり、ネットカフェでシャワーを浴びたり、新鮮なことだらけで」
「すまなかった。宿をとればよかったな」
ランがばつが悪そうな声で言った。
「非常食のビスケットなんて初めて食べたし」
「食事を疎かにした件についても、深く反省している」
「……たしかに不自由な部分もあったけど、俺には必要な時間だったから」
振り返れば走ってばかりだった。道に迷ったとき、手当する道具を探しに行ったとき、警察から逃げるとき。
ろくに運動していなかった人間が、よくあれほど走ることができたと、我ながら感心する。
不思議な日々のことを思い出すと、ほんの少し前のことだというのに、無性に懐かしさがこみ上げてきた。当時の出来事を次から次へと思い浮かべていた透だったが、そこであることを思い出した。
「透?」
…………脳内で点と点が、繋がりかけている。
そこから導き出される答えは、これ以上ないほど望ましくないものだった。できれば目を逸らし続けていたいほどだ。直視するには相当な覚悟が要る。
透は砕けんばかりに歯を食いしばった。そんなことってあるか。そんな、そんな。
「どうした。具合が悪いのか」
透は葛藤を振り払うように、首を激しく横に振った。どれだけ直視したくなかろうと、聞かなくてはならないことだから。
「1つ気になることがあるんですけど、聞いてもいいですか」
「なんだ?」
ランの黒く深く、しかし人肌ぐらいのあたたかさを持った瞳に押し出されるように、詰まりかけた言葉がつるんと滑り出した。
「双子のお兄さんは今、どうしているんですか?」
ランはとうとう聞かれたか、という顔をした。
透にはその顔が見ていられなかった。
「……この前捕まった」
2人は揃って、古い砂の城のようになって向かい合っていた。
「君にまだ話していないことがある。ひどい内容だが、それでも」
「聞きたいです」
透の力強い返事にランは目を大きくし、口の端をほんの僅かに上げた。
「移動しよう。そろそろ、次にここを使う団体が来る」
ピアノを片付けるのを待ち、透はランとともに日の下に出た。何となくいつもの通学路を辿る。
それにしても暑い。1度、いつものベンチに腰を掛けて、尻が焦げる前に断念した。
ランは無言だが、額に汗が滲んでいて、暑いと感じているのは明白だった。
どこか涼しく、人に聞かれる心配のない場所に行かなくては。
透は暑さで弱っている頭を必死で働かし、1つのアイデアを思いついた。言うか言うまいか迷ったが、この地獄のような暑さには勝てなかった。
「うちで話しますか」
ランは太陽を睨みつけて、頷いた。
「そうしよう」
*
家に着くと、透はクーラーを低めの温度に設定し、冷蔵庫から麦茶を出した。氷を入れた2つのコップに注ぎ、多い方をランに渡す。
座布団もないので、2人してリビングの床にあぐらをかいた。
部屋の隅まで涼しくなった頃、ランは話し始めた。




