第28話
「無事だったんだな」
透は頷いた。掛けたい言葉が多すぎて、却って何も言えなかった。
ランは警戒心の強い野良猫を相手にするように、時間をかけて透の前にしゃがみ込んだ。
「……今弾いたのは、私が作った曲だ。中学校の文化祭で、1度だけ人前で演奏した。だから君がこの曲を褒めてくれたときに確信した。彼の弟だと」
誰のことを言っているのか理解するのに、時間が掛かった。
「兄を知ってるんですか?」
「ああ。命の恩人だ」
命の恩人ってまさか。
透は直感的にある推測をしたが、すぐに辻褄が合わないことに気づいた。
その子は当時、中学生だったはずだ。透の2歳上だから、今は……。
「こう見えて今年で21歳だ」
「嘘……」
「本当の話だ」
「そうなんですね……嘘とか言ってごめんなさい」
「気にするな。そういう反応をされるのは慣れている。それより、私は君の知りたいことを誰よりも正確に話せると思う」
真摯な光を宿した目が、透を見つめる。
「聞くか?」
透は再度、深く頷いた。
*
私は物心ついたときから、音楽が好きだった。
幼い頃からピアノを習い、小学校の高学年からは作曲も始めた。
高校は音楽科のあるところへ推薦で行こうと思っていた。志望していた高校の推薦試験は、課題曲の演奏で合否が決まることになっていた。
試験の日が近づくにつれ、私は放課後に居残りをしてピアノの練習をした。音楽の先生がつきっきりで指導してくれたんだ。
その日も夕方まで練習をしていた。ただいつもと違い、双子の兄が一緒に学校に残っていた。理由はわからない。
薄暗い道で前を歩いていた双子の兄は、急にこう言ってきた。
「将来はピアニストかよ」
「そうだな。できるならプロになって、世界を演奏して回りたい」
私は本気だった。それまでどの分野においても、努力したぶんだけ相応の結果が出てきた。だからこの夢も、そのうち叶うだろうという自信があった。
「俺だって将来はプロの歌手だ」
「そうだな」
私の相槌に、返ってきたのは舌打ちだった。思えばあいつは、正門で合流したときからずっと気が立っている様子だった。
お互い黙ったまま橋に差し掛かったとき、あいつは突然の暴挙に出た。
私から鞄を奪い取り、川に投げ捨てたんだ。
その鞄には、大事な楽譜が入っていた。指導された部分に細かくメモを入れた、この世にまたとない自分用の楽譜だ。
私は楽譜を失くしたままで試験に臨む自分を想像し、恐ろしくなった。どこかに鞄が見えやしないかと橋の上から身を乗り出し、川を覗き込んだ。
今思えば、黒い鞄をあの暗がりの中で見つけようとするのは無謀な話だった。
必死に目で鞄を探していた私は、背中に衝撃を受けて川に落ちた。冷たい水の中でもがきながら、落とされたのだと理解した。
泳ぎが苦手なわけではなかったが、学生服が水を含んで重たくなっていたことや、あたりが暗いことに動揺して、もがくことしかできなかった。
急激に体温が奪われていくのを感じながら、死ぬかもしれないと思った。そのとき、誰かに身体を強く掴まれ、川辺に引き上げられた。
助けてくれたのは自分とそう歳の変わらない、近所の高校の制服を着た――君のお兄さんだった。
死を免れたことに安堵した私は、鞄を取り戻すためにもう1度川へ入ろうとした。どう考えても冷静さを欠いていたし、愚かだったと思う。当然、君のお兄さんに止められた。
それでも諦めきれなかった。私の剣幕に君のお兄さんは驚いたようで、その理由を訪ねてきた。
私は流された鞄に大事な楽譜が入っていたことを話した。君のお兄さんはその話を聞いて、ひどく同情してくれた。
そしてこう言ったんだ。
「俺が探してくるよ」
たしかに水の中で散々暴れた私は、体力の限界が近かった。とても泳げるような状態ではなかった。
しかしだからと言って、まったく関係のない相手に頼むことではなかった。
君のお兄さんは頼もしい人だったが、体格は当時の私と同じぐらいで、特別いいわけではなかった。
きっとすでにかなりの体力を消耗しているに違いなかった。
だが君のお兄さんは微塵もそんな様子を見せずに、川に入っていった。
私をそこで意識を失い、気がついたら病院のベッドで横になっていた。
意識が回復した私が君のお兄さんの無事を尋ねたことで、大人たちはもう1人溺れた人間がいることを知ったようだった。
それから捜索が開始され、見つかったのは翌日の午後だった。
✻
「これが、すべてだ」
話し終えるとランは黙り込んだ。
透は壁の秒針がひと回りする間、石のように微動だにしなかった。かと思うといきなりバネが壊れた人形のように立ち上がり、外を目指した。
「玻璃!」
ランに腕を掴まれ、透は振り払おうとするが、力が敵わない。
「離してください!」
「駄目だ」
「お願いします。これ以上ここにいたら俺、あなたを殴ると思う」
涙でぐちゃぐちゃの顔のまま、ランを睨みつけた。ランが大きく息を呑み、力が抜けた隙に振り払おうとするも、再びこめられた力に阻まれた。
「このままいなくなるぐらいなら私を殴ってくれ」
「なんですかそれ。俺の力が弱いから、殴られても平気だと思ってるんですか」
「違う。私は殴られるだけのことをしてしまった。いくら後悔しても、君のお兄さんにしてしまったことは消えない」
「……殴ったって消えないんですよ」
「ああ。わかっている。一生消えない。でも君が殴りたいなら、私を殴らないためにここから出ていくなら、何発でも殴ってほしい」
「……どういうことですか?」
「ここから出ていったら、おそらくもう2度と会ってくれないだろう?」
図星を突かれ、透は俯いた。
「お願いだ。勝手なことを言っている自覚はある。でも……私の前からいなくならないでほしい」
祈るような声色にハッとして、透は上を向いた。子どものような表情を見て、胸が鋭く痛む。




