第27話
それから1か月が経った。
ランからの音沙汰はなく、連続殺傷事件も世間ではすっかり過去のこととなった。
江波は概ね容疑を認めており、その供述から、類似した過去の未解決事件との関与も調べられているようだった。
大学では期末試験が終了し、明日からいよいよ夏季休暇となった。
最後の講義は教授の長たらしい挨拶で締めくくられた。透が筆記用具や教科書を鞄に詰めているうちに、目立つ学生たちのグループが我先にと講義室を出ていく。
第1波が外へ抜けていった後、いくらか静かになった室内で、「あの」と誰かが声を発した。
なんとなく視線を向けると、1人の男が緊張した様子で雪に声を掛けていた。
「来週の花火大会、一緒に行きませんか!」
講義室中の視線が雪に集まる。だが、雪は物ともせず、あっけらかんとした口調で言った。
「ごめんなさい、あなた誰ですか?」
「そんな! 目が合うと必ず、笑いかけてくれたじゃないですか」
「そうでしたっけ? でも雪は人見知りだから、知らない人とは遊びに行けないんですよ」
「じゃ、じゃあ友達から」
「友達になるのにも、結構時間が要るんです。最低でも半年はないと無理な感じなんですよね。あ、でもそれじゃ夏が終わっちゃいますねー」
「ええっ」
「それに、心に決めた王子様がいるので」
そう言って微笑む雪と目が合った。よくわからないが、透もとりあえず微笑んでおいた。
にわかに講義室がざわつきだす。特に扉の近く、雪を誘った男の友人らしき数名は、膝をついて泣き叫んでいる。とんだカオスだ。
「冗談でしょ……そんなの聞いてないぞ!」
「言ってないですもん」
心なしか好奇の視線を感じ始めて、透は逃げるように講義室を出た。
帰ろうかと思いかけて、まだ夏休みに読む本を借りていないことを思い出した。途中でエレベーターを降り、大学図書館のある隣の棟に移動する。
日が差し込むガラス張りの渡り廊下を歩いていると、眼下に浮足立った学生たちの姿が見える。
その中に動きのうるさい、やたら派手な柄のTシャツを着た後ろ姿を見つけ、透は小さく吹き出した。
彼の父が警察関係者であると、事件後に知った。
その繋がりで、透は江波から受けた被害について、警察に話を聞かれることがあった。
署内でこの前の警察官たちに遭遇するのではないかと肝を冷やしたが、そんなことはなかった。
当然、ランの話はしていない。よって、どのような流れでその場にいたのかを説明するのに苦労したが、特に突っ込まれることはなかった。
隣の棟に入り、階段へと足を向けようとしたところで、透の耳が微かな音色を拾った。
その旋律に、透は自然と足を止めた。
あの曲だ。
眠れない夜を乗り越えるために、幾度も口ずさんだ曲。名前は思い出せないけど、とても好きな曲。
音がする場所を探して、勝手に足が動く。そのうち、駆け足になった。
胸に広がるのは懐かしさだった。夏の初め、バンドチームがこの曲を演奏していたが、透はやはり、ピアノバージョンがたまらなく好きだった。
明るいようでどこか悲しい、この曲を知ったのはいつ、どこでのことだっただろう。
――いい曲だね。
ふいに頭の中で、愛華の声がした。
――透はこの曲好き?
記憶の一部が蘇る。あたりに大勢の人がいる。熱気に包まれ、透は立っていた。
――まあまあかな。
――素直じゃないな。好きって言えばいいのに。
何かの紙でパタパタと扇ぎながら、愛華は半笑いで言う。
――まあまあだし。好きじゃないし。
――はいはい、難しいお年頃なんだよねー。……言い返してこないの? よっぽど夢中なんだ。
驚いたような愛華の声に応えずに、透は食い入るように前を見ている。
――透が真剣になるところなんて、始めて見た。
――うるさい。邪魔すんな。
――ひっどい。ついてきてあげてるのに。
険悪な雰囲気になる2人を窘める声がする。兄の聡だ。
――皆演奏に集中しているんだから、大声で喋っちゃいけないよ。
――はーい。ねえ、聡くんはどうしてこの中学に入らなかったの? 北小出身でしょう?
――そうだよ。でも、サッカーに力を入れている中学に入りたかったんだ。
――プロになりたいの?
――ううん。そういうわけじゃないよ。
――なりたくないの? じゃあなんで?
――サッカーが好きなんだ。
兄の答えに納得がいかなかったのか、大量に質問の弾を込める気配を感じる。
透は注意を前に向けたまま、それを止めた。
――袖引っ張んないで! 伸びるでしょ。
――うるさい。聴いてるんだから静かにしろよ。
――結局聴いてるんじゃん。
愛華はぶつくさ小言を言ったが、すぐに大人しく前を向いた。
――あの人、よく見たらイケメン。
――ピアノの? 俺も思った。
――ちがうよ。ピアノの人はちょっと怖い。
透は講堂の扉を開け、目を見張った。あのときの景色が、今、目の前に広がっていた。
広い舞台の、真ん中よりもやや左にずれた場所で、彼がピアノを弾いている。見た目に似合わず、繊細な指使いで、あの曲を奏でている。
扉の傍で、音を立てないようにしゃがみ込み、透は聞き入った。
曲は1度大きく盛り上がって、終わった。
衝動的に拍手をして、思いのほか響いたことに焦っていると、ピアノのほうから、人が立ち上がる気配がした。
透は駆け寄りたいような、逃げ出したいような気持ちになった。だが、どちらを選ぶ間もなく、彼――ランが目の前までやってきた。




