第25話
その言葉で、記憶が急速に巻き戻り始める。高校から卒業した中学、そして前の中学まで記憶を巻き戻した透は、シートの上で大きく飛びはねた。一瞬で目が冴えた。
「あのカタすぎ委員長が?」
透のクラスの学級委員長は、生徒指導の教員も引くほどに頭が固かったのだ。
ガキ大将の筆頭だった透と誠司は事あるごとに彼女と対立し、陰で「カタすぎ委員長」と呼んでいた。
「そうだよ。雰囲気はちょっと変わったけれど、面影があるだろう」
「ないよ。にわかには信じがたい」
渋い顔を作って答えると、誠司は喉の奥で笑った。
「なかなか気づいてもらえないって、愚痴をこぼしていたよ」
「今のキャラクターから、眼鏡でおさげの真面目な委員長を思い出せるわけがなくない? 髪ピンクだし」
「それはいとちゃんのせいらしいよ」
「俺の?」
「どうもピンク色の消しゴムもらったとかで」
しばらく頭をひねり、ようやく思い出した。
当時、道に落ちているものはなんでも拾っていた透は、ある日の下校中に消しゴムを拾った。たしかピンク色のウサギの消しゴムで、まだ新品だった。
拾ったものの自分の趣味ではないので、そのときたまたま出くわした委員長にあげたのだ。
「でも、どうして髪までピンクに?」
「透がくれた色は、彼女にとってそれだけ重要な意味を持つんだよ」
うん? 待てよ。似たような話を最近聞いた気がする。何だったっけ……。
透はそう考えつつ、急激に眠気が戻ってくるのを感じた。何度か欠伸を漏らし、軽く頬を叩いたり腕をつねったりしたが、逆らいきれずに、眠りに落ちた。
目が覚めたら、すでに家の近くまで来ていた。
別れ際、誠司が言った。
「昔、お兄さんと似てないねって言ったの、覚えているかい?」
「覚えてるよ。俺もそう思うって言った」
透の言葉に、誠司は頷いた。
「あのとき、僕は羨ましいって言った。〝優秀なお兄さんがいることが〟っていう意味にも取れるって、あとから気づいたんだけれど、僕が言いたかったのはそうじゃない。いとちゃんのまっすぐさが羨ましかった。純粋な気持ちでお兄さんを尊敬している、素直なところが羨ましいと思ったのさ。そのことをきちんと伝えておきたかった」
2人は目を合わせ、同時にはにかんだ。透は中学生の頃、誠司と仕組んだ悪戯が成功したときの、あのくすぐったい感覚を思い出した。
ありがとうと言うにも照れ臭く、透は頭を掻きつつ、まったく関係のないことを口にした。
「そのさ、いとちゃんていうの、変えない? 違和感がすごい」
「じゃあ透だから、とおちゃん?」
「まだ誰の父親でもないよ」
即座にツッコむと、誠司は「難しいな」と微笑んだ。
「普通に透でいいよ」
「僕だけの呼び方がほしいんだよね」
「何で?」
「あだ名をつけるって、素敵なことだと思わないかい? 愛称っていうくらいだし、愛がこもってるんだよ」
思えば誠司は中学時代、クラスメイトの1人ひとりにあだ名をつけていた。
だが唯一無二を目指し過ぎるあまり、奇天烈なあだ名を授けられた者も少なくなかった。
その事実を考えると、誠司の主張にはあまり賛成できない。
「そうかな。本名のまま呼ぶ方が、その人の名前を大事にしている感じがあって、いいと思うけど。いやなあだ名の場合もあるし」
「カタすぎ委員長とかね」
「そうそう」
「なら、とりあえずは透ちゃんで。唸るようないいあだ名、考えておくよ」
「わかった」
「またパンを買いに来てくれるの、待っているよ」
「うん。また」
キッチンカーが見えなくなってから、透はすぐに自分の部屋へ向かった。
玄関を開けようとして、気づいた。
鍵がない。
キーケースをランの車に置いてきてしまったようだ。
幸いなことに、1階の大家のもとへ向かい、鍵を失くしたと説明すると、快くスペアキーを渡してくれた。
今度こそ鍵を開け、玄関に入ると、寒々しい空間が広がっていた。
帰らなかった日数より、暮らしていた日数の方が余程長いのに、家主を迎え入れるというより、客人を招くようなよそよそしさを感じるのは、透の錯覚だろうか。
ベッドに横になったが、体が沈み込みすぎて、くたびれているのになかなか寝つけない。
透は何度も寝返りを打ち、寝入ったのはすっかり日を跨いでからだった。
透を襲ったあの男が、連続殺傷事件の容疑で指名手配されていたこと、そして警察に逮捕されたことを、翌朝のニュースで知った。
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「連絡寄こしなさいよ、ばか」
「ごめんなさい」
ベンチで両膝をつけて座り、透は食い気味に謝った。
スマホから視線を外して、虚空を見つめた愛華は、わずかに顎を引いた。意訳すると「とりあえずは許してやる」ということだ。
透は途端に姿勢を崩し背もたれに寄り掛かった。分厚い雲間から大陽が覗き、景色が急に夏らしくなる。
「あと1日経ってたら、透のお母さんに連絡してたわ」
「そりゃ間に合ってよかった」
愛華は呆れたような顔をして、またスマホに目を戻した。だがすぐに顔を上げ、「ねえ、変なこと言っていい?」と言い出す。
「度合いによるかな」
「だいぶキモイかも」
「ええ。やだな」
「最近SNSでさ」
「話すんかい」
「話題になってたヤツ、いるじゃん。事件起こして。江波天だっけ」
「……ああ」
透は反射的に首を触りそうになった手を、さりげなく下ろし、極めて気のない返事をした。
愛華はカフェでドリンクを注文するときのような、のんびりした口調でこう言った。
「うち、あの男どっかで見たことがある気がする」




