第23話
男のおっとりした雰囲気が、急に威圧的に感じられた。言外に答えるまで解放しないと言っているように思うのは、透の心理的な問題だろうか。
透は身を硬くし、極力表情を動かさないように努めた。2対の瞳が、透を注視している。
まるで、少しの動揺も見逃すまいとしているようだった。
「……知りません」
透が不自然なほど抑揚を抑えて答えると、2人の男は顔を見合わせた。
「別に僕ら、怪しい者じゃないんだ。ほら」
それを目にした途端、透は頭が真っ白になった。
「俺、何も知りません」
「よくできた偽物じゃないよ」
「本当に何も知りません」
「そうなんだ」
男は頷いてにっこり笑った。透は寒気がした。
「どういう関係なの? 兄弟じゃないよね」
「え」
「長いこと一緒に行動してるみたいだけど」
後部座席をジロジロとのぞき込みながら言う。
「それなら知ってるはずでしょう? 行き先ぐらい」
「……」
黙りこくる透に男はたたみかけた。
「君、成人でしょう? なのに知らされてないって、信用されてないの?」
煽って透が口を滑らせるのを期待しているのだろう。だが男の言葉はむしろ逆効果だった。
信用されてない。その通りかもしれない。透は結局、何1つ知らない。
――でも俺は、ランさんを信じると決めている。
透は運転席側のドアから逃げ出した。「待てガキ!」という怒声とともに、背後から足音が迫る。
足の遅い透には開けた地形は不利だ。複雑に入り組んだ地形で身を隠した方が、逃げ切れる確率は高い。
建物の多い方へ、そしてできれば人の少ない方へと走っていくと、景色は廃墟のような家ばかりになった。
足音はまだ聞こえる。角という角をことごとく曲がった甲斐あってか、一応追手の視界から消えることには成功したようだった。
塀の下にうずくまりながら、透は自分の言動を後悔した。
もっとうまく誤魔化さなければいけなかった。あれでは余計に疑われてしまう。
彼らはこれから、執拗にランを探し回るだろう。最悪の展開だ。
幾分か呼吸は整ったものの、酷使した足は小鹿のように震えていた。今までやったどの長距離走やマラソンよりも疲労が激しかった。
口の中で血の味がする。今すぐ水が欲しい。
透は喉の渇きに耐えかねて立ち上がった。
何せ動揺のあまり、ショルダーバッグを車内に置いてきてしまったのだ。
足音のことはもはや二の次になり、透は水を求めて彷徨った。廃墟のインターホンを押す勇気はないし、かといってあたりは無人だ。自分で選んで逃げてきた場所だが、こうなってはさすがに文句を言いたくなった。
「水、水……」と呟いてどれぐらい歩いただろうか。道の先に公園らしき場所を見つけた。水道水はあまり好きではないが、今回ばかりはありがたい。
伸びきった雑草を踏み分け、水鉄砲やバケツが転がるぬかるみを避け、水道の蛇口をひねった。
「おい」
その声に、透は口に含んでいた水を吹き出しそうになった。急いで飲み込もうとして今度はむせた。呼吸を落ち着け、袖で口元を拭って顔を上げた。
「びっくりしたぁ……もう済んだんですか?」
深刻な雰囲気で出かけて行ったわりに、まだそれほど時間が経っていないではないか。
老婆の家で世話になったときよりも早い。間違いなくこれまでで最短記録だ。
逆光で黒くなった人影はその場に立ち尽くしたまま、何も答えなかった。
透はそこで違和感を覚えた。
ランはこんなに細かっただろうか?
こんなに髪が長かっただろうか?
こんなに姿勢が悪かっただろうか?
考えるほど背筋が寒くなった。彼はランではない。
さっきとは比べものにならないほどの震えが透を襲い、足元から崩れ落ちた。手や尻に、生ぬるい泥の感触がした。
その男は昼間の公園には不釣り合いだった。もっと言えば、この世には不釣り合いだった。
近づいた人間の命を躊躇なく奪ってしまいそうな、重くどす黒い、異様な雰囲気を持っていた。
「なんでここにいやがる」
「は……?」
「わざわざ文句を言いに来たのか?」
「何、言ってるんですか」
意思に反して、声が上擦る。
男の質問はまったくの見当違いだったが、透の反応は図星と捉えられたようだった。
「俺に文句があんだろ」
「ち、ちがいます。ないです!」
透は後ずさりながら、自分は初対面の人間であることや、抵抗の意思がないことを、必死になって訴えた。このままでは冗談抜きで殺されそうだった。
「舐めんな。俺は間違えねえ」
光のない、明確な敵意を持った目に見下ろされ、透は言葉を失った。
もはや、話し合いで解決することは不可能だった。目の前の化け物は曇りのない、純度100パーセントの殺意でもって、透に襲いかかろうとしている。
視界の端に水鉄砲が映ったが、そんなものでどう戦えるというのだろう。
武器もない、スマホもない。透は無力だった。
道でカラスに糞を落とされるよりも不運だ。繁華街で頑固おやじにぶつかり、難癖をつけられるよりもひどい。だってまだぶつかってもいない。目が合っただけで、いや、目が合う前から始まっていたのだ。初対面の大学生への復讐劇は。
「俺を呪い殺すつもりか」
男が近づいてくる。引きずるような歩き方が、蛇のように見えた。
「てめえは間違ってる。大間違いだ」
呆然とする透の上に、男が馬乗りになった。抵抗する間もなく、節くれだった青白い手が伸びてくる。手すりを掴むような無遠慮さで、喉を鷲掴みにされる。声が出ない。
「殺したのは俺じゃねえ」
透は口を中途半端に開けたまま、どうすることもできなかった。
喉を押さえつけられるのは、声を殺して泣くときと、よく似た苦しさがあった。
透の奥に眠っていた苦しさと、あの日気づかされた苦しさと、よく似た苦しさだった。
――俺は兄を失った日からずっと、泣いていたんだな。
そう思った途端、透の奥で何かが音を立てて破裂した。
急速に滲んでいく視界に、歪んだ男の顔が映った。
「俺じゃねえんだよ。聞いてんのか。泣きてえのはこっちだ。俺の人生めちゃくちゃにしやがって」
耳障りだった。剥がそうと力を込めていた手を外し、両耳を塞いだ。
ああ、最悪だ。最期に聞くのがこの声だなんて。




