第20話
「おじゃまします」
「はいどうぞ」
藤色のやわらかいスリッパに足を入れ、見るからに高級そうな模様な絨毯の上を歩いた。夏なのに絨毯か、と思ったことは秘密だ。
「消毒液と、絆創膏だったわね。奥から持ってくるから、ソファに座って待っていてちょうだい。もし喉が渇いているなら、冷蔵庫から好きに取って飲んでいいからね」
「あ、ありがとうございます。大丈夫です」
色調に統一感のある客間に通され、ソファの端に座る透の膝に、毛足の長い大型犬がすり寄ってくる。遠慮がちに撫でると、しっぽを振って頭をぶつけてきた。なかなかの威力だ。
透の薄い体はあっけなく倒され、背もたれに沈んだ。
喜んでいると勘違いしたのか、何度も腹に頭突きをかましてくるので、「うおっ」「おわっ」と声を上げながら、老婦人が早く戻ってくることを願った。
扉を開け、客間に現れた老婦人は、透と犬が戯れているのを見ると、微笑ましそうな顔をした。
「可愛いでしょう。その子のために、首輪も特注したのよ」
たしかに大型犬の首には、大ぶりな宝石がついていた。素人目で見ても本物だ。
傷がついてしまわないだろうかと、透は持ち主でもないのにひやひやした。
「綺麗ですね。これ、アメジストですか?」
「あら、よく知ってるわね。この子の誕生石なの」
老婦人に頭を撫でられると、犬は頭突きをやめて、その場にお座りをした。透は腹を摩りながら、改めて首輪の宝石を見た。
「そうなんですか。色で選んだのかと思いました」
「それもあるわね。大切な子には、自分の好きな色を贈りたくなるもの」
「なるほど……」
正直、よくわからない。
透の心を見透かしたように老婦人は深い笑みを浮かべ、そして言った。
「坊やもきっと初恋泥棒だったのね」
「え?」
「いいえ、気にしないで。この箱が救急セットよ。必要なものはきっと何でも入っているから、これごと持って行ってちょうだい。返さなくて構わないから」
「いいんですか。すみません、ありがとうございます」
「こちらこそ、長々とごめんなさいね。急いでいるんでしょう。気をつけて帰ってね」
「はい。本当にありがとうございました」
玄関でもう1度礼を言い、家を出た。庭先の紫が、暗闇でも鮮やかに映った。
車に戻ると、ランはまだ眠っていた。ぐっすりというより、ぐったりとした様子だった。
透の胸に、安堵と心配が同時にやってくる。
音を立てないように箱を開け、脱脂綿とピンセットを取り出し、消毒液を染み込ませた。保健委員だったことがあるので、やり方は心得ている。
そのまま頬にあてがおうとして、手を止めた。
「ランさん」
囁くと、閉じられた瞼がわずかに動いた。
「染みるかもしれないですけど、触れますね」
返事はない。細心の注意を払って傷口のあたりに数回脱脂綿を当てると、ほんの僅かに血がついた。
「痛くないですか」
小声で尋ねると、瞼が薄く開いて「ああ」と掠れた声がした。
「どうしたんだ……?」
「救急箱ですか? 親切な方から貰いました」
「そうか……大丈夫だったか」
その言葉の意味を図りかね、透は傷口から目へと視線を移した。目が合い、自然と笑みがこぼれる。
「はい。親切な方でしたから」
強調して言うと、ランは頷き、再び目を瞑った。
「他に怪我したところはないですか」
「ああ。血は出てない」
「血は?」
「肩やなんかを数か所、殴られた。それだけだ」
「なんかって……」
透は小言を飲み込み、救急箱に入っていた保冷剤をタオルで包み、ランに渡した。冷凍庫から出したばかりらしく、よく冷えている。
「用意周到だな」
「必要なものは何でも入ってる、みたいなことを言ってました」
「心強いな」
「ですね。RPGのお助けキャラみたいでした」
「ゲーム、やるのか」
「昔は結構。でもうまくできなくて、兄ちゃんがやっているのを隣で見ていることが多かったです」
懐かしい。方向音痴の透は、レースゲームでコースを逆走していた。
「今度、やってみるか」
「いいですよ。負けません」
「苦手じゃないのか」
「苦手です。でも今やったら案外うまくできるかも」
「楽しむことが最優先だろう」
返事に窮した透の頭を、大きな手が撫でた。
「子ども扱いしないでくださいよ」と文句を言いながらも、やっぱり悪い気はしない。自分に尻尾が生えていなくてよかったと、透は妙なところに安堵した。
「手当て、ありがとうな」
「どういたしまして。怪我はこれっきりしてくださいよ」
「善処する」
「善処って……ああそうだ、ここって前に俺が住んでいた地域なんですよ。すごい偶然ですよね」
「すごいな」
「感情こもってなさすぎません? なんて棒読み」
「すごいな!」
「おお……急に大きな声出されるとびっくりするのでやめてください」
「加減が難しいな」
小さくなった大男を横目に、透は「とにかく」と話を戻した。
「前に住んでいた家とかに行ってみたいんですよ。思い出巡りみたいな」
「わかった。明朝寄ろう」
その言葉通り、ランは夜が明けるとともに車を走らせた。眠い目を擦りつつ、透は道案内をした。
「このあたりか?」
「もう少し先です。たしか、次の十字路を右に曲がってすぐだったはず」
果たして、透が住んでいた家は、驚くほどそのままの状態で残っていた。雑草が好き勝手に伸びているのと、表札がないこと以外は、あの頃とまったく同じだった。
透はしばらく、家の前に立ち尽くしていた。
「あっ」
ふいに隣の家の玄関扉が開いて、女が顔を出した。静かな朝の住宅街、女の悲鳴にも似た声は透の耳にはっきりと届いた。
数秒見つめ合い、透のほうから目を逸らした。時間の無駄だと思った。
「知り合いか」
助手席に音を立てて乗り込むと、ランが女のほうを見遣りながら尋ねてきた。
「ただの隣人です」
そう言いつつも、自分の口調に明確な棘があるのは自覚していた。




