第2話
「ありがとう。雪、がんばるから」
何を、と透が顔を上げると、居心地の悪い視線が嘘だったかのように、屈託ない笑みを浮かべた彼女と目が合った。
不自然なほどつるりとしていて、エイリアンのような瞳だった。
「よろしくね。透くん」
「ああ、うん。よろしく」
透はとりあえず会釈をした。どうやら、雪とは今後もよろしくしないといけないらしい。
「どう?」
「え?」
「今のところでいいから、雪の印象を教えて」
脈絡もなくそんなことを言いながら、雪が目の前で華麗にターンをする。レースの裾がふわりと広がった。
「ピンクが似合ってると思うよ」
適当に思いついたことを言っておく。
「ほんと? 嬉しい。実はピンク色が大好きなんだ」
そんな、秘密を打ち明けるような口調で言われても。
「一目でわかるよ」
「だよねー」
照れくさそうに爪を見せられ、それも気づいてたよ、と頷くと、雪は高い声を上げて、小さく跳ねた。だんだん子犬を相手している気分になってくる。
「でもその長い爪で生活できてるの、すごいね。色々くっついてるし、不便そうなのに」
「慣れるまではね。でも雪はピンクを増やすためのネイルだから、不便だって我慢できるの」
「ピンクを増やすため?」
「そうなの。極力、ピンクの専有面積を増やす感じでがんばってるの」
想像を超えたピンク愛だ。透は変人だと笑うこともできず、ただ圧倒された。
そもそも、色の好みは、一体いつ決まるのだろう。人によっては物心つく前から、気に入っている色があるものだ。あれは遺伝子に組み込まれているのだろうか。
だとしたら、未だに好きな色がない透は、遺伝子の信号に気づけていないのだろうか。
「あっ、雪この後、美容院の予約してるんだった。痛んできてるし、色も抜けてきちゃってたから」
毛先をつまみ、雪が漏らす。
「ピンクに染め直すの?」
「そう! ピンクに!」
雪は髪が乱れるのも構わず、勢いよく頷く。
「じゃ、またね」
ふざけた敬礼をし、軽やかな靴音が遠ざかっていく。背筋が伸びた、お手本のような歩き方だった。
「また」
つられて出た言葉に、透はしてやられたと思いつつも、そこまで悪い気はしなかった。
2人の様子を出口の扉の傍で数人の学生がじっと見ていたが、ぼけっとしている透は気づくはずもない。
*
棟の1階は、いつになく人がいた。
どうやら突き当たりの大講堂で、イベントが行われているようだった。開け放たれた扉から、音楽が聞こえてくる。透も聞いたことがある曲だった。
疾走感のある音楽が、鼓膜を突き破って体内に侵入し、内臓を鷲掴みにし、大きく揺さぶる。映画館でも経験しないような音量に、透はそんな錯覚を覚えた。
透は思わず足を止め、遠目から中の様子を観察してみた。うねる聴衆はさながら波のようで、軽く眩暈がした。
ステージ上には3人の男がいて、曲を演奏していた。ドラムとベースとギター、各々が一歩も譲らない激しい演奏ながら、まとまりがある。
前方の左端に、運営らしき同じTシャツを着た男女が数名立っていた。そのうちの1人と目が合った気がしたが、聴衆からどよめきが起こり、すぐそちらに気を取られた。
ギター担当が歌い出したのだ。低くねっとりとした歌声に、聴衆の一部からは黄色い声があがった。しかし演奏に比べると、あきらかに不安定で素人臭かった。
透は白けた気分になり、歓声に背を向け、棟の正面の出入口から外に出た。
キャンパスをふらふらと歩き回り、誰も座っていないベンチを見つけ、腰を下ろした。自然とため息が漏れる。
程よく涼しい初夏の風が吹いていた。去っていた眠気が再びやってくる。
つかの間の微睡みを打ち砕いたのは、背後から迫る硬い靴音だった。
数羽の鳥が一斉に飛び立つ。透は振り向かない。
再び漏れたため息を誤魔化すために、小さく欠伸をした。
できることなら、鳥になってどこかへ飛び立ちたいところだった。
ほどなくして大袈裟なほど肩を怒らせた愛華が、体を放り投げるように隣に座った。その拍子に、肘がベンチの背にぶつかり、鈍い音を立てる。かなり痛そうだったが、それどころではないようだ。
「マジで最悪」
この数か月で何度、彼女の口から「最悪」という言葉を聞いたことだろう。彼女がそう言うとき、理由は大概決まっている。
「またフラれたの?」
「ちがう。いつもフッてるのはこっちだし、今のカレシはちがうから」
愛華はスマホを取り出し、眉間に皺を寄せて文字を打ち込んでいる。日に日に面影を失っていく横顔を、透はなんとなく眺めた。
流行の最先端を逃さない愛華の化粧は、流行に疎い透からすると奇抜で、強烈だ。
「なあ、その目はどうやってるの?」
「メイク?」
「いや、そのエイリアンみたいなやつ。流行ってるの?」
「……は?」
「ごめんなさい」
「これはカラコン。黒目はデカくした方が可愛いからやってるの」
なるほど。だが同じ「カラコン」でも、黒目の大きさは様々あるのかもしれない。さっき見たものは、愛華のよりも大きいようだった。
「そんなことより、まさかうちの透にまで近づいてくるとは思わなかったんだけど。最悪」
懐かしい響きだった。
愛華は透の幼馴染だ。まだ時計の時刻も読めないような頃から、透の小さな保護者だった。
だが実際は、守られた記憶などほとんどなく、むしろ学年が上がるにつれ、クラスメイトたちによって、根も葉もない噂が立てられた。
透はさして気にしていなかったが、愛華はむきになって言い返し、こっそり泣いていた。泣くぐらいなら保護者面なんかやめればいいのに、と何度言っても、愛華は聞く耳を貸さなかった。
ピンヒールがコンクリートを小刻みに打つ。華奢なヒールは、今にもぽきりと折れてしまいそうだった。
「最悪って何が?」
「さっき話しかけられてたでしょ」




