第17話
食糧が底をついた。
「俺が買いに行ってきますよ。バイトだし、これぐらいさせてください」
最初は断られたが、透がめげずに何度も頼むと、ランは仕方ないといった様子で許可を出した。
車は大型スーパーから歩いて数分のところにある、狭い路地に止まった。
透は金を受け取り、買うものを確認して車から降りた。
全身が外気に包まれると、言いようのない開放感が体を満たす。
「ハリ」
運転席に座ったままのランが、透を見ていた。
迫力のある目つきだが、怒っているわけではない。これは透を案じる目だ。
「すぐに戻ってきます」
「ああ」
スーパーの入り口でカゴを取り、必要なものを次々と入れた。好きなものも買っていいと言われたことを思い出し、透は迷ってから、前に飲んだ炭酸を買った。
レジで会計をし、何事もなくスーパーを出る。
ランは車の外に何があるというのだろう。少し心配性すぎやしないかと、透は苦笑いした。
だがその数分後。
「嘘だ……」
ランの車がなかった。
薄暗い道は、右を見ても左を見ても、車どころか人影ひとつ見当たらない。
ランの名を呼びながら歩いても、返事はない。沈黙に身を置いているうちに不安に掻き立てられ、駆け足になった。
走れば走るほど道は複雑になり、薄暗くなっていく。状況が悪化していると思いながらも、立ち止まるのは恐ろしかった。
足裏の感覚が変わっていく。硬くも平坦でもない。もっと柔らかく、歪だ。
前触れもなく現れる凹みに足をとられ躓いた。手のひらに土がついた。
「ここ、どこだよ……」
血の気が引いた。見渡してみても光がない。
「これがほんとの〝お先真っ暗〟ってやつだな」
そんなふざけたことを言ったところで状況は変わらない。戻ろうにも、来た方向がわからないのだ。透は生粋の方向音痴だった。
経験則からして、これ以上むやみに動かないほうがいいことだけは確かだ。透は心細さを感じつつも、その場に留まった。
体感にして30分経ったかという頃に、遠くに2つの光が現れた。車だ。
すがるような気持ちで駆け寄るうちに、再び踏みしめる感覚が硬くなっていく。良いこと続きだ。
「お、少年。1人か。ひょっとして迷子かい?」
運転席から身を乗り出して尋ねてきたのは、中年の男だった。助手席から年かさの男も覗いてくる。
白と黒の車体が目に入り、透は凍りついた。反射的に首を横に振った。
「そうかい。ここらへんは不審者がよく出るから、早く家に帰りなさい」
「はい、すみません……」
赤い光が小さくなっていくのを見ながら、透は大きく息を吐いた。胸を抑えると、心臓が激しく脈打っていた。
自力でもとの場所に戻ることはできるだろうか。警察官に道だけでも聞けばよかったかもしれない。
いや、そもそも素直に助けを求めるべきだったのだ。なぜすぐに否定してしまったのだろう。
日は完全に落ち、空には白い満月が出ている。
あの月を介して、ランに居場所を伝えられたらいいのにと、透は思った。電波がないと、人間は途端に無力になる。
もしこのまま誰かに見つけられて、或いは誰にも見つけられず、2度とランに会えなかったとしたら。可能性は決して低くない。
「やだなぁ……」
また会いたい。あの声で語られる話を聞きたい。あの温もりの隣で眠りたい。
ランと一緒にいるとよく兄のことを思い出した。それも最期のことではない。もっと前の日々の記憶だ。
死によって覆い隠され、風化されてきた記憶を、ランが引っ張り出してきてくれた。
くだらない喧嘩、何気ない仕草、2人の間で流行った変な遊び。
兄との記憶がいい意味で普通のものへ変わった。以前が美化されすぎていたのだ。兄はもっと人間臭い人だった。
それに、これまで透が恥だと思っていたことの大半を、恥でもなんでもないと教えてくれた。どれも年相応の小さな失敗に過ぎなかったのだ。
かつての言動への恥は、自己嫌悪が行き過ぎた結果だったと気づかせてくれた。兄の死を経て、自分を責めることが習慣化してしまったのだ。
それからは、思い出さないようにしていた過去が思い出せるようになった。ランが真面目に受け入れてくれるからだ。器の大きい人だなと思う。
「ランさん……早く来てよ……」
とても19とは思えない、ひどく甘ったれた声が出た。情けないが透は切れ目のない暗闇に包まれ、相当参っていた。
だから、最初は空耳かと思った。
「ハリ!」
大きな影がものすごい速度でこちらへ迫ってきていた。透は安堵し、その場に崩れ落ちそうになった。酷使した足は、緊張が解けると情けなく震え出した。
「車がなかったから探していたんですけど、迷っちゃって……」
「私はずっとあそこにいたぞ」
ランは低い声でそう言った。透はその顔を見て、口を噤んだ。そして決めた。
ランと行動している間はもう2度と、1人で買い物に行かない。
2人は車のある場所まで無言で歩いた。歩けば歩くほど、透はいたたまれなくなった。
ランは車から降り、この距離を歩いて探しに来てくれたのだ。
「1本裏の道に入ってしまったのかもしれないな」
車に乗ると、ランはようやく口を開いた。元の調子に戻っていて、透は嬉しくなった。
「迷惑をかけてごめんなさい」
「私は迷惑だから怒ったのではない」
「そうなんですか……?」
「そうだよ」
車は走り続ける。白い月明かりがやわらかく降り注いでいた。
透は自分が警察に頼らなかったわけを理解した。
ランを警察に会わせたくなかったのだ。透の横に座っているランと、世間の目に映るランは違うのではないかと、透は考えるようになっていた。
彼はずっと、何かから逃げているのではないか。
透は静かに目を瞑った。どんな事情であろうとついていこう。だってバイトなのだから。




