表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
怪しいバイト、行ってみた  作者: 濃霧
何もわからないままバイトは始まる
15/30

第15話

 尿意は自覚すると、途端に耐えがたくなった。

 今すぐ公衆トイレを探さなくては。透は車内から周囲を確認したが、ここから見えるのは数件の家と草原だ。公園や公共施設らしき建物は、来た道にも見当たらない。


 透の頭に()()の2文字が浮かんだ。


 この場で漏らすか。いや、19でそれはない。絶対に避けたい。たとえ低くても、見つかる可能性に賭けて探そう。


 透はそう決意し、車から飛び出した。


「あんた、うちに用かい」


「ひぃっ」


 真横から声がして、透は飛び退いた。一瞬、尿意が引っ込む。


 顎紐のついた、つばの広い麦藁帽を被った老婆だ。浅黒く皺だらけの肌に似つかわしくないほど、目が欄々として生気がみなぎっている。


「ここらのもんじゃないだろう。東京から来たのかい」


「ええ、まあ。はい」


 ここの町並みに比べれば、断然東京に近い。


「はっきりせん子だね。どこから来たんだい」


「と、東京です」


 たじたじになって答えると、老婆から畳みかけるように質問が飛んできた。


「何しにきたんだい」


「まあ、観光みたいなもので」


「ここは何もないがね。牛でも見に来たのかい」


「はいそうです!」


 透は面倒くさくなり、観光旅行に来た元気な少年の体で乗り切ることにした。自分が出せる中で最も無邪気な声を出す。


「小学生の校外学習ぶりに見たので、ものすごくワクワクしました」


「そらよかったねえ」


 老婆は銀歯を輝かせて笑った。


「わしは生まれてから、ずーっとここで暮らしていたもんだから、すっかり見慣れちまった」


「ずっと……!?」


 すごい。町から出たいと思ったことはないんだろうか。


 老婆はなんでもないような顔でさらに言った。


「かれこれ100年だ」


「100年!?」


 透は素っ頓狂な声を上げた。


「生きてみると、100年は長くないさ。あんたもあっという間に爺さんだ」


 老婆は催眠術を掛けるような口調で言って、透の目の奥を覗き込んだ。透は迫りくる生気に気圧されながらも、100年が短かったらどんなにいいだろうと思った。


「わしが生まれたのはね」


 長い話の始まりを思わせる語り出しは、意外にもそこで途切れた。何か気に障る反応をしただろうかと動揺する透に、老婆が呆れた様子で言った。


「あんた、さっきから落ち着かないね。便所使うかい?」


 なぜ気づかれたのだと目を見開く透に、老婆は言った。


「100年も生きているとね、だいたいのことはわかるのさ」


 老婆の家で手洗いを借り、透は冷静さを取り戻した。途端に、ランとの約束を破ったことへの罪悪感が顔を出した。早く車に戻らなければ。


「お邪魔しました。ありがとうございました」


「あんた、ちょいと食べていきなよ」


「え」


 声の方へ向かうと、老婆が居間のテーブルに半円型に切ったスイカを並べていた。


「しっかり食べんと、暑さに負けちまうよ」


「ありがとうございます。でも俺、戻らないといけなくて」


「種はこの袋に出してな」


「あ、はい」


 透はあれよあれよという間にテーブルの前に座らされた。透の皿にだけ、種をとりやすいようにとフォークまで用意してある。透は食べてすぐ戻ればいいかと思い直し、勧められたスイカに齧りついた。


「うまいだろう」


「はい」


 咀嚼すると、瑞々しい果汁が口の中に広がった。飲み下すたび、喉を通る冷たさが心地良い。


「スイカなんて久しぶりに食べました」


「都会のもんは食べないのかね」


「いや、そんなことはないと思います。たまたま俺が食べる機会がなかっただけで……」


 透の言葉を遮るように、居間と奥の部屋を仕切る襖が開いた。


 寝間着姿の男が顔を出す。中年で痩身の、神経質そうな男だ。


「あれ、お客さん?」


「牛を見に来た、東京からのお客だ」


「……へえ。東京から」


 男はぎこちなく会釈をした。透も軽く頭を下げる。


「こんな格好ですみません。ゆっくりしていってください」


「たけしの教え子かい?」


「ちがうってばあちゃん。俺は東京では教えてないから」


 男は老婆にスイカを勧められると「あとで食べるよ」と言い、再び奥に消えた。


「好物なのにねえ」


 老婆は男のぶんの皿をキッチンに運び、戻ってくると言った。


「孫だよ。癌を患って、お医者さまに長くないと言われてね。わしより先に逝ってしまうかもしれん」


 透は咀嚼を止め、意味もなく皿に溜まったスイカの汁を見つめた。


「先生の仕事もやめてな。ここは緑が多いから、身体にいいんでないかと、娘夫婦に頼まれたのさ」


「そうなんですか」


 気の利いた言葉が何も出てこない自分が不甲斐ない。


 老婆は自分の皿を脇へ押しやり、大切なものを託すような視線で透を見た。


「あんた、身体を大事にしなさいな。粗末にしたら、あんたが思うよりもたーくさんの人が悲しむんだよ」


 透は老婆の言葉の意味を考えながら、黙ってスイカを食べた。赤い部分をくまなく食べると、ようやく老婆の合格が出た。


 ごちそうさまと手を合わせ、玄関で靴を履いていると、老婆がガサガサと音を立てて何かを持ってくる。


「うちで採れたトマトときゅうりだ。持っていきな」


「いいんですか?」


「いいさ。夏野菜は身体にいいんだから」


 ビニール袋を覗くと、不揃いなトマトときゅうりの他に、個包装の煎餅が数枚入っていた。


「このお煎餅もいただいていいんですか?」


「そりゃたけしが入れたんだ。もらっておきな」


 老婆は目尻の皺を深くし、ひとり言のように呟いた。


「これもご縁だねえ……」


 門扉を出ると、ちょうど道の先にランが見えた。透は咄嗟に姿勢を低くし、俊敏な動きで車内に滑り込んだ。ほどなくして助手席に影が落ち、見上げるとランが窓の傍に立っていた。


「丸見えだ」


「そうですよね……」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ