第14話
「大丈夫です。熊が出たらすぐに起こしますし、スマホは見ませんし、ラジオも聞きません」
そう言いながら透は、前も同じようなことを誰かに言ったような気がした。大丈夫だから、約束守るから、安心してと。あれはいつ、何の時だっただろうか。
「……わかった。しばらく寝かせてもらう」
ランは道の端に寄せて車を停めると、背もたれを倒し、目を瞑った。
「私のスマホが鳴ったら起こしてくれ。熊は出ないから安心しろ」
透の「わかりました」という返事の後には、安らかな寝息と、微かな虫の音だけが聞こえた。
眼前に広がる暗闇が、溶けだしそうなほど淡く感じる。
気楽な夜だ。早く寝なければならないと、気がはやることもない。
窓を薄く開けると、夜風が緑や土の匂いを纏って、車内に流れ込んでくる。風を感じるために窓に顔を近づけながら、不思議な時間だと思った。
大学生にも、今日窓から目にした多くの社会人にも、明日がある。各々の役割があり、決められたタスクをこなしている。
そんな中、透は役割もタスクも放り出して、知らない土地で、夜風に吹かれている。
明日の行き先もわからない。
ただ車という、外と区別された空間があり、時計の要らない時間が流れている。
俺はここにいていいのだろうか。
車が大きく揺れて、透は我に返った。
運転席を見ると、闇に慣れた目に、苦しげな表情が映った。低く呻いては、身を捩っている。
ずいぶん前のことのように感じられる1つの記憶が、透の脳裏に蘇った。
彼はまた、血だまりの中で笑いながら死んでいく夢を見ているんだろうか。
ランが天高く手を伸ばす。切羽詰まった様子で、空を掴む。
起こすべきだろうか。それとも、手を握るべきだろうか。
透は慎重に伸ばした手を、途中で止めた。どこまでこの人の内側に踏み込んでいいのかわからなかった。
拒絶されることを想像すると、それ以上手が伸びなかった。
やはり頼まれたことだけをやるべきだ。それ以上はきっと、迷惑だろう。
透は思い直し、手を引っ込めた。
ほぼ同時に、呻き声が止まり、再び安らかな呼吸が始まった。
透は靴を脱ぎ、座席の上で膝を抱えると、いつ鳴るかもしれないスマホを見て、じっと構えた。
だがとうとう日が昇るまで、車内の静けさを遮るものはなかった。
*
朝日が差し込み、鳥が鳴きだすと、ランはのっそりと身を起こした。無言のまま、何かを探すようにまわりを見回す。
「結局、鳴りませんでしたよ」
透はスマホを指さし、もう片方の手で目を擦りながら報告した。
ランは透を見ると、氷漬けにされたかのように動かなくなった。
寝ぼけているのかと思いつつ、もう1度同じことを伝えると、ようやく指が示す先を目で辿って、ダッシュボードの上に置かれたスマホを見た。
「ああ」
ランはスマホを手に取り、何回かタップをすると、興味を失ったようにダッシュボードの上に戻した。背もたれの角度を戻しながら、透に尋ねる。
「ずっと起きていたのか」
「スマホを見てなきゃいけないと思って。それにあんまり眠くなかったですし」
「そうか。助かった」
透は魘されていたことを伝えるかどうか迷って、伝えないことにした。以前の話を踏まえると、本人も覚えている可能性が高い。蒸し返すような真似はしたくなかった。
「交代だ」
その言葉に甘え、透は倒した背もたれに横たわった。本格的に強くなりだした日差しが目に突き刺さり、反射的に腕で顔を覆う。
すると後ろでごそごそと物音がして、何かが降ってきた。腕を退けると、白いタオルだった。
「あ、ありがとうございます」
透は戸惑いながら礼を言った。「ああ」と不愛想な声が返ってくる。
エンジンがかかり、車が走り出した。
寝起きでレタスのサンドイッチを頬張る透に、運転席から声が掛かる。
「今日は行くところがある」
「どこですか?」
「西方面だ」
大まかすぎる。西って、どれぐらい西だ。
「何か疑問があるか?」
疑問だらけだ。だが場所に関しては聞くなという無言の圧を感じ、透は別のことを訪ねた。
「俺はどうすればいいんですか?」
「車の中で待っていろ」
「ええ、留守番ですか? バイトは?」
「そのうち頼む」
そのうちって。透は曖昧な言い回しに不安を覚えつつ、しぶしぶ頷いた。
「早めにお願いします」
「任せろ」
車は畑沿いの道を走り、辺鄙な町に辿り着いた。道すがら、牛がちらほら見え、透は内心興奮した。窓を開けると、牧場の独特な匂いが鼻に抜けた。
住宅が集まっているあたりで車を降りると、ランはスマホを確認した。そのまま左右を見回し、どこかへ消えたかと思うと、戻ってきて言う。
「ここなら大丈夫だ。空調や飲食は好きにしていい。ただし、外には絶対に出るな」
「はい」
何が大丈夫なのか、気になるところではあったが、ランが珍しく急いでいる様子だったので、透は大人しく聞き従った。
この穏やかで雰囲気のいい町は、おおよそどの観点で考えても、大丈夫か大丈夫でないかでいったら、大丈夫と判断されそうなものだ。
それにランの判断は、決まって確信めいているため、信用してもいい気がしていた。
車に残され、しばしの間、のどかな景色に癒された。車の外に出たくなるとは、思いもしなかった。
数分後、前触れもなく、内側から湧き上がる衝動があった。
「やばい、トイレ行きたい……」




