第12話
「内容を説明する」
プールサイドに立ち、ランが言う。
透は水着姿で、塩素が匂う水面を見下ろした。事前にきちんと掃除されていたようで、水色の底面がはっきりと見える。
「もしかして、泳ぐんですか」
「そうだ。向こう端まで泳いでもらう」
「それだけですか? たったの25メートル?」
「ああ。泳ぎ方に指定はない。美しさも問わない。重要なのは速さだけだ」
透は安堵した。クロールをがむしゃらに泳ぐだけならば、透にもできそうだった。
「制限時間は何秒ですか」
「ない」
「ランさんの主観で決まるんですか。早いか、早くないか」
ランは軽く頷いて、それから首を横に振る。透は困惑した。イエスとノー、一体どっちだ。
早く入れと、ランが仕草で促す。
透は仕方なく、足先から慎重に水に浸した。夏だからか、想像していたよりも冷たくなかった。日差しを受けて火照った体には丁度いいくらいだった。
水に入って見る向こう端は、先ほどよりも遠く感じられた。あの壁に手が届くだろうか。透は急に自信をなくした。
透の通っていた高校では水泳の授業がなかった。最後に泳いだのは中学3年生だ。
水に入れば感覚を思い出すだろうと思っていたが、今のところはまったくだった。
「途中で足をついてしまったら、どうなるんですか」
「脱落する。報酬も払われない」
何ということだ。透は絶句した。金が目当てでバイトを受けたわけではないが、覚悟を決めて、講義も休んでここまで来たというのに、報酬なしでは大損だ。
「1回、練習してもいいですか」
「だめだ」
「そんな」
透は何とか練習を許可してもらおうと口を開きかけて、ふと、先ほどのランの言葉に思い出した。
「脱落っていうのは?」
「これは競争だ。最も早くあの向こう端についた者にのみ報酬を払う」
おかしなことを言うものだ。この場には、透とランの2人しかいないというのに。まさか、この男も泳ぐというのか?
「競う相手は私ではない」
「じゃあ誰ですか」
透はそう言うのとほぼ同時に、プールサイドに水着を着た人が現れた。1人ではない。ざっと数えて7、8人ほどか。しかも、その中には見慣れた姿がいくつもある。
「よう」
「やっほー透くん」
「ちゃんと連絡寄越しなさいよ」
透は目を見開いた。
「なんでいるの。大学は?」
透の問いに、彼らは三者三様の反応を示す。
「今の俺らに大事なのは、眠い講義よりも未知の体験することだろ」
「透くんが楽しそうなことするなら、雪も一緒にしたいなーと思って」
「こんな変なバイト、うちの透が危ない目に遭うかもしれないじゃない」
透は言いたいことや聞きたいことが山ほどあった。
そろそろ単位がやばいんじゃないか?
たぶん楽しいことじゃないから、帰った方がいいと思う。
この前言ったこと、もう怒っていないのか?
みんな、どこでこのバイトのことを知ったんだ?
しかし何も言えなかった。近づいてきた人物に気をとられ、言いたいことが一瞬のうちにして、吹き飛んでしまった。
「は?」
その人は腕のストレッチをしながら、透に微笑みかけた。目尻に小さなしわができる。
「驚いた?」
そういう次元じゃない。ありえないことが起きている。
透は彼を凝視した。水泳帽からはみ出す癖のある髪。垂れた目元。いつも三日月のように弧を描いている口元。透よりもやや高く、日に焼けて引き締まった体躯。何もかも同じだ。記憶の中と異なるところなど、どこにもない。
「あはは、目がまんまる。サプライズ大成功だな」
「いやサプライズって、冗談きついよ」
透の乾いた声を遮るように、笛の音が鳴った。
「始めるぞ」
「待ってください。どういうことなのか説明がないと、困りますって」
「やめるか?」
「いや、なんでここに兄ちゃんがいるんですか」
「苦しみたいと、君が言っただろう?」
たしかに透はそう言った。だが兄がいるのなら、前提が変わってしまう。苦しむ必要などない。本人に直接聞いてみればいいのだから。
「質問はあとだ。君の兄以外、すでに準備が整っている」
「すみません。お待たせしてしまって」
兄が謝りつつ素早くプールに入った。
「大丈夫でーす」と言ったのは、雪だろう。能天気な声に皆が笑う。
兄は右端から2番目、透のすぐ隣にいた。
「笛がスタートの合図だ。フライングの場合はやり直す」
ランの声に、再び空気が緊張する。透は腕をピンと伸ばし、けのびの構えをとった。
1秒後、笛が鳴る。あちこちで水に潜る音が立つ。
透は出遅れ、焦って壁を蹴った。がむしゃらに腕を動かし、水を掻く。
数回掻くと酸素が欲しくてたまらなくなる。息継ぎをしようと横を向いたが、力みすぎていたため顔がうまく水面から出ず、水を飲んでしまった。気持ち悪い。
透は吐き気を催し、足をついた。かなり進んだ感覚があったが、実際は半分ほどしか泳いでいなかった。
他の人たちは順調に泳いでいた。帽子とゴーグルで誰が誰かわからないが、みんな泳ぎがうまかった。速い者はもう、向こう端に辿り着きそうだった。透のように途中で足がついてしまう人など、1人もいない。
透はぼんやりと人々の泳ぎを眺めていたが、ふと、やけに人が左に偏っていることに気がついた。
1人いなくなるだけで、ここまで偏って見えるだろうか。
透は腑に落ちない思いを抱えながら、1番右端に泳いでいる人を見た。おそらく1位だ。荒っぽい動きで水を掻く、腕が見える。手首に鮮やかなミサンガがついている。
「……ちがう」
あんなミサンガ、兄はつけていない。
後ろを振り返った。透のずっと先に人がいる。
透は足をついたまま手で水を掻き、駆け寄った。
素早く動けないのがもどかしい。




