第11話
「君をネガティブな気持ちにさせた人間がいるだろう。君に恐ろしい思いをさせた人間がいるだろう。君の余裕を奪った人間がいるだろう。性格が悪いのはそいつだ。自分のことを嫌になるぐらいなら、そいつを憎め」
そいつとは誰だろう。溺れた子どもか。きちんと躾をしなかったその親か。執拗に嗅ぎまわった大人たちか。
そう考えていると、足元の感覚がなくなっていく気がした。またあの得体の知れない苦しさを感じた。
でもやはり、どれもこれも透がもとから持っていた性質ではないだろうか?
もし仮に透がいなくなったとして、兄はきっとこうはならない。
「他人のせいにするのが上手い人間ほど、楽に生きている。すべて自分のせいだと思う人間は、傷つけられたときも、傷つけたかもしれないときも、苦しまなくてはならない。理不尽な話だ」
男はそれから何事か考え込み、やがて立ち上がった。
「気が変わった」
「え?」
透を置き去りにして、男は説明もなく歩き出した。数メートル進んで振り返り、座ったままの透を見て、ひらりと手を振る。
わけもわからず振り返すと、男はまた手を振る。透も振る。
しばしテーマパークのような奇妙な時間が流れ、男は諦めたように手を下ろすと、こちらへ戻ってきた。
「来い」
「どこへ行くんですか?」
答えはない。ただ、男は透が立ち上がるのを待っている。
透は行き先を聞かない限り動かない意思を態度で示してみたが、効果はありそうにない。結局、我慢比べに負けたのは、透の方だった。
このままではどうせ、家に帰ることもできない。
「本は読むか?」
道すがら、男は透にそう問いかけた。
「一応。文学部だし」
「大学生なのか」
平坦な声音だが、信じられないという空気が伝わってきた。透は苦笑いを浮かべて言う。
「よく驚かれます。19には見えないって」
「不快な思いをさせたか」
「いえ、慣れてるので。気にしないでください」
「そうか。本はどんなジャンルを読むんだ?」
「人が死なない話が好きです。死ぬ本は読みません」
「ミステリーやサスペンスは端から対象外か」
「まあ、それもそうですけど。俺が嫌いなのはミステリーでもサスペンスでもない、感動のために死が生まれる話です。売れるために人を死なせているんだろうなと思うと、ぞっとします」
こう考えるようになったのは、兄がいなくなってからだ。とても無関係とは言い難い。
「人を死なせなければ感動を呼べない話なんて、くだらないと思いませんか。技量がある作家は、人を一人も死なせずに面白い話を作れるはずです。ただ目の前の風景を描写するだけで、一流なら面白いはずです」
「耳が痛いな」
男は口元をわずかに歪めた。不敵な笑みだと感じたが、自嘲的な笑みを浮かべているのだと気づいたのは、男が再び話し出してからだった。
「昔、小説家を目指していた時期があった。最初は、自分の内側にある言葉を書きたかった。物語は秘めた思いを吐き出すことができる唯一の場所だった。次に、自分の書いた小説で誰かを救いたいと思った。しばらくすると、急にそれが馬鹿らしく思えた。そして書くこと自体をやめた。あの頃の私が君の話を聞いたら、どう思うだろうな」
「人が死ぬ話を書いたんですか?」
「ああ。君が言うところの、感動のための死だった。もうとっくに土になっているだろうが」
「捨てたんですか?」
「ああ。正確には、捨てられた」
男はそこで話を切り、今度はつらつらと自分の好む文学について話を始めた。透は会話をしているというより、ラジオを聞いている気分になった。夜更けの道と男の声は、不思議と相性がよかった。
「どこへ行くんですか?」
透は黒いワゴン車の前で何度目かの質問をした。駐車場に停まっている車はその1台だけだった。
男はもう文学の話をすることなく、透に向かって言った。
「バイトだ」
男は透が助手席に座ったのを確認すると、運転席に乗り込みエンジンをかけた。
「意外に柔軟だな」
「ええ、まあ。自分でやると決めたことなので」
本当は、疲れていて抵抗する気が起きなかったのだ。それにあたりはほとんど真っ暗で、街灯と信号が申し訳程度に光っている。断ってこんなところに一人取り残されるのはごめんだった。
透を乗せた車はゆっくりと走り出した。
「言い遅れたが、私のことはランと呼んでくれ」
「ラン? どういう字ですか?」
「君の解釈次第だ」
男は投げやりな口調で言った。
蘭。この男には少々可憐すぎる名前だ。卵はないだろう。何にせよ本名とは思えない。
「コードネームですか?」
「コードネームがつくような人間だと思っているのか」
透は言い淀んだ挙句、遠慮がちに言った。
「少しだけ」
本当はかなり思っている。
「君のことは何と呼べばいい」
「俺はただのしがない大学生なので、コードネームとかは持っていなくて」
透がそう言うと、男――ランは前を向いたまま、口の端をわずかに上げた。
「なら今考えればいい」
透は考えた。透から連想するもの。透明なもの……。
「空気」
車内が沈黙で満たされた。
「それは、かなしくないか」
かなしい。透は新鮮な気持ちでその言葉を聞いた。久しく使ったことがない言葉だった。
「かなしいって、どんな感じでしたっけ」
なんて間抜けな質問だ、と透は尋ねてから思った。
「漢字? 心に非ずだ。あとは、口がつく方もあるか」
「あ、そういう意味じゃなくて」
赤信号になり、男が透のほうを見た。
透は今更なかったことにもできず、ぎこちなく問いかけた。
「かなしいって、どういう気持ちでしたっけ、と思って」
ランは前に向きなおり、真面目な顔で答えた。
「そうだな……自分がすり減っていくような、ブルーな感じだ」
「疲れるみたいなことですか」
「似ているが、違うな」
しばらくしてランが言う。
「口がつく方は、見ていられないと思う気持ちだ」
「見ていられない」
「そう。私は最近、それになることが多い」
透はどう相槌をしていいかわからず、目を瞑った。狸寝入りに入ったのだ。
だんだん体が重くなる。微かな振動が心地良かった。




