第10話
「ああ。頼んだつもりはないんだが」
男は初めて会った日に戻っていた。無精髭が伸び、髪は暴風に晒され、裏返った傘のようになっている。
どのように寝たらそんな寝癖がつくのか、透には想像がつかなかった。
男は覇気のない足取りで透の隣まで来ると、空を仰いだ。透もつられて上を見上げる。
明日は雨だろうか。星1つ見えない。
「悪夢のない生活に慣れると、辛いものだな」
男の嘆きは贅沢に思えた。透にはおそらく一生、到達し得ない境地だからだ。この亡霊のような姿を見ては、羨ましいとも思えないが。
「何かきっかけがあったんですか?」
「あった。色々な」
男は鳥の巣のような頭を乱暴に掻いた。見た目通りの荒っぽい仕草を目にしたのは、初めてのことだった。
「バイトの件だが、なかったことにしてもいいか」
「え。そんな」
「色々あって、それどころではなくなってしまった。もともと、馬鹿げた思いつきにすぎなかったんだ。効果があるとも思えない。他人を巻き込むべきではなかった」
男の言葉は、透の弱いところを狙いすましたように刺した。透に向けて話しているのではと思ったほどだった。
兄の苦しみに近いものを味わおうなど、馬鹿げた考えだった。これは兄が経験したものに近いなどと、誰が教えてくれるのだろう。
そんなもの、兄にしかわからないというのに。
結局は同じ苦しみを味わった気になって安心したい、透の自己満足でしかない。
「何か食べるか。メロンパンが売っているかもしれないな」
子どもの機嫌を取るような口調だった。
バイトがなくなった状況に、落ち込んでいると思われただろうか。
透は断ろうとしたが、間に合わなかった。男は店に入ると迷わずカゴの中に2本の炭酸とメロンパンを入れ、レジで会計をした。
店員は男と透を怪訝そうに見比べてから、レジ袋を男に渡した。
「食べな」
駐車場の車止めに腰掛け、透はメロンパンを受け取った。
袋を破り、大きく齧る。キッチンカーのものより大きく、しけている。使い古した布団みたいだった。
「うまいか」
「うまいです。もう元気です」
「そうか。飲み物はどっちがいい」
差し出された2本のうち、赤い方を選んだ。炭酸が喉に突っかかり、激しくむせた。
「そっちは強炭酸だ。こっちと替えるか」
透は首を振り、もう一口飲んだ。むせないように、慎重に喉に通す。
久しぶりに飲んだ炭酸はきつかったが、そのぶん爽快だった。気怠さや憂鬱をまとめてどこかへ吹き飛ばしてくれる。
「知っているのか、その曲」
男に指摘されて、鼻歌が出ていたことに気がついた。透は自分の単純さが悔しいような、嬉しいような気がした。
澄まして続けようとしたが、音を盛大に外してやめた。顔が熱い。
「いい曲ですよね。たしかピアノバージョンもあって、俺はそっちが好きなんです」
透が誤魔化すように言うと、男は思い出すように宙を見つめた。
「そうだったか」
「はい。たぶんですけど」
確信はないが、たしかあったはずだ。
「私も気に入っている」
「ですよね。気分が良いときももちろんですけど、そうじゃないときにも、よく聴きたくなります」
だが残念なことに、曲名を覚えていないため、探し出すことができずにいる。仕方なく、聴きたくなったときは、記憶しているかぎりのフレーズを口ずさんでいた。
眠れないときにそうすると、重苦しい夜も不思議と洒落て感じられるのだ。
そこで透は思いついた。この男に聞いたら、曲名を教えてはくれないだろうか?
「あの曲の名前、忘れてしまったんですけど、何だったかわかります?」
「さあな。忘れてしまった」
男の答えはそっけない。透は期待が外れ、落胆した。
亮太に聞いたら、教えてくれるだろうか。あのイベントでも演奏されていたのだから、おそらく知っているはずだ。
そんなこと考えていると、別のことまで思い出してしまう。
本物の歌声とは似ても似つかない、あのボーカル。
「やっぱり下手だったな」
本物に比べると、うまいとも個性的だとも到底思えなかった。
あれはあくまで夢で兄が言ったに過ぎないが、もし兄が生きていたとして、同じようなことを言う確信があった。兄は人やものを悪く言ったためしがなかったのだ。
透が考えなしに誰かを笑うと、必ず叱られた。
「どうしてこんなに違うんだろう。同じ親から生まれて、同じ環境で育ったのに」
「遺伝とは別に、生まれつき備わっているものがあるんじゃないか」
男にそう言われ、言葉に出していることを自覚した。
深夜だからだろうか。脳が口に出すことと出さないことを、区別できていない。
「悪いことじゃない。誰にも遠慮せずに伸ばしていけばいい」
透は言われたことの意味が、すぐにはわからなかった。
頭の中で繰り返し再生して、ようやく誤解が生まれていることを理解し、慌てて訂正した。
「逆です。俺のほうが駄目なんです。勉強や運動は別にできなくてもいいんですけど、性格は良くなりたかった」
「君は性格が悪いのか?」
「悪いです。あいつ歌ヘタクソだなーとか平気で思うタイプです」
「下手なものを下手だと思うことは普通だ。何も悪くない」
「それだけじゃないです。ネガティブでビビリで、自分勝手で、兄ちゃんとは全然違う」
「誰しも大なり小なりそういう部分がある。本当に性格が悪い人間はそんなものではない」
男は透をじっと見て、小さな子供に言い聞かせるようにそう言った。男の目は夜空よりも黒く、暗かった。透はその暗さに言葉を奪われたように、開きかけた口を閉じた。




