第八話 松茸と草刈り機と、揺れる男心
あの未知の世界へ転移できるようになってから、気づけば四ヶ月が経過していた。
ジムニーという頼れる相棒を手に入れた俺は、茜さんとの奇妙なデート(? )を重ねつつ、麓のコンビニでは澄田さんからの氷の視線を浴び続けるという、なんとも落ち着かない日常を送っている。
季節は九月の中旬。
暦の上では秋だが、令和の日本ではまだまだ残暑が厳しい。
そして、やってきた。 四度目の新月。
「よし、行くか」
今回の計画はこれまでで最も大胆だ。
初日に転移してから三日間、一度も令和には戻らず、完全な永禄尾張でのサバイバル生活を送る。
目的は廃村だけでなく、その反対側、祠の背後に広がる未知の山中の探索だ。
そのために、準備も万全を期してきた。
「嶺くん、また何か始めるの?」
農協でガソリン携行缶を購入していると、案の定、茜さんに見つかった。
「ええ、まあ。家の周りの草がまた伸びてきちゃって。 エンジン式の草刈り機を買ったんで、その燃料です」
「あら、偉いわねー。でも、一人で無理しちゃダメよ? いつでも手伝いに行くんだから。 今度は、秋の味覚でバーベキューもいいわね。 サンマとか!」
そう言ってウインクを飛ばしてくる茜さん。
やめてくれ、その破壊力は俺の貧弱な心臓には毒だ。
「…… また、何か企んでるんですか」
一方、コンビニで追加の保存食を買っていると、レジの向こうから絶対零度の声が飛んでくる。 澄田さんだ。
「いや、企んでない! キャンプだよ、ちょっと長めの!」
「…… ふーん。 山、なめない方がいいですよ。 この時期、スズメバチも活発になりますから。 あと、クマも冬眠前に荒食いするんで」
「うっ…… 肝に銘じます」
「…… 別に、いいですけど。 何かあったら、迷惑なんで、ちゃんと自分で何とかしてくださいね」
ツンとそっぽを向く彼女。
その口調とは裏腹に、的確なサバイバル知識を授けてくれているような気がするが…… いや、自意識過剰だな。
そんな二人の監視者からの激励(? )を胸に、俺は夜、仏間で静かに祈りを捧げた。
ぐにゃり、と視界が歪む。
次に目を開けた時、俺はひんやりとした祠の中に立っていた。
背負ったバックパックの重みが現実感を突きつけてくる。
だが、今回はそれだけじゃない。
傍らには俺の新たな相棒、エンジン式草刈り機が鎮座している。
文明の利器、その2だ。
俺は早速、LEDカンテラの明かりを頼りに、携行缶から草刈り機へと燃料を注ぐ。
明日からの激闘に備え、準備は怠らない。
その夜は持参したフリーズドライの親子丼を食し、寝袋にくるまって眠りについた。
翌朝。
午前六時、スマホのアラームで起床。
まずは、廃村までの道の様子を伺うべく、俺は草刈り機を担ぎ出した。
スイッチを入れ、スターターロープを引く。
ブロロロロロ……!
静寂な戦国の森に、けたたましいエンジン音が響き渡る。
なんだか、めちゃくちゃ悪いことをしている気分だ。
だが、その効果は絶大だった。
前回、鉈でヒーヒー言いながら切り開いた道が、面白いように拓けていく。
行く手を阻んでいた雑草が、刃の前に刈り取られていく。
「うおおおお! 文明、最高!」
俺は雄叫びを上げながら、一心不乱に草を刈り進めた。
廃村までの道を確保した後、俺は一旦祠へと戻った。
本日のメインクエストは、この祠周辺の探索だ。
まずは祠の周りの雑草を綺麗に刈り払っていくと、この祠が実に興味深い場所に建てられていることが明らかになってきた。
まるで植生の境界線上に、ピンポイントで置かれているようなのだ。
「なんだ、これは……」
祠の西側には巨大な竹林が広がっていた。
もはや「林」というよりは「壁」だ。 青々とした竹が空を覆い隠すように密集しており、人の侵入を頑なに拒んでいる。
これをどうにかしないと奥へは進めそうにない。
次に北側へ回ってみると、そこには見事な赤松の林が広がっていた。
下草も少なく歩きやすそうだ。
俺は何気なくその林の中に足を踏み入れた。
そして、数歩進んだところで、俺の目はあるものに釘付けになった。
「…… ま、さか……」
松の木の根元。 落ち葉の間から、にょっきりと顔を出す、あの独特のフォルム。
茶色いカサに、白い軸。
そして、あたりに漂う芳醇で、官能的ですらある、あの香り。
「ま、松茸だあああああ!」
俺は思わず叫んでいた。
しかも、一本や二本じゃない。
ぽつり、ぽつりと、まるで宝探しのようにあちこちにその姿を見せている。
なんだ、ここは。 天国か?
慌てて持参したビニール袋を広げ、俺は夢中で松茸狩りを始めた。
それにしても、季節がおかしい。
俺の知る日本では、松茸のシーズンはもう少し先のはずだ。
だが、この永禄尾張は令和の日本とは気候が違うのだろう。
肌を撫でる風はひんやりとして、完全に秋の陽気だ。
九月でこれか……。
だとしたら、ここでの冬は相当な覚悟をしないとまずそうだ。
元々、そろそろ三日間の短期滞在ではなく、一月ほどの長期滞在を試して、この世界に他の人間がいないか本格的に探索したいと考えていた。
やるなら、本格的な冬が来る前だ。
…… よし、次の機会、来月の新月には一ヶ月の長期滞在クエストに挑戦してみよう。
決意を新たに、俺は松茸狩りを再開する。
目に付くだけでもざっと五キログラムは超えそうだ。
これ以上は持って帰るのも大変だ。
俺は名残惜しくも松茸狩りを中断し、今度は東側の探索に向かった。
東側は鎮守の森とでも言うべきか、楢やクヌギなどの広葉樹が雑多に生い茂っていた。
ドングリがたくさん落ちている。
これはイノシシやクマが好みそうな環境だ。
クマ撃退スプレーの安全装置を改めて確認する。
やはり、この祠は針葉樹林と広葉樹林、そして竹林という三つの異なる植生のちょうど境界に建てられているようだ。
何か意味があるのだろうか……。
結局、祠の周りの草刈りや松茸狩り、そして周辺の簡単な探索をしているだけで、あっという間に一日は過ぎてしまった。
夜は、早速収穫した松茸を持参したアルミホイルで包んで焚き火に放り込む。
じゅわっと染み出すエキス、醤油を数滴垂らすと天国のような香りが立ち上った。
「うっま……!」
なんだこれ、美味すぎる。
令和の高級料亭で食ったら、一体いくらするんだろうか。
俺は一人、贅沢な晩餐を堪能した。
三日間の滞在はあっという間に過ぎた。
二日目と三日目は、廃村の周りの草刈りと家の簡単な補修作業に費やされた。
そして運命の帰還日。
夜になり、俺は祠の中で静かに祈りを捧げ、令和の世界へと戻った。
大量の松茸という、最高のお土産を抱えて。
「…… ふぅ」
見慣れた仏間に戻り、俺は安堵のため息をつく。
さて、このお宝をどうするか。
まずは俺だけで、少し、いやかなり早いが秋の醍醐味をここ令和でも楽しむことにしよう。
そうだ、近いうちに感謝を伝える意味でも、庭のバーベキューに二人を招待して、このお宝も振る舞うのがいいだろう。