第四話 検証、どうすれば転移できるのか?
うっ……頭が痛い……。
翌日、俺が目を覚ましたのは午前8時を過ぎた頃だった。
仏間の硬い床で寝ていたせいか体の節々が悲鳴を上げ、昨夜の深酒が祟って強烈な二日酔いが俺を襲っていた。
「飲みすぎた……」
這うようにして台所へ向かい、井戸水をがぶ飲みする。
冷たい水が火照った体に染み渡るようだった。
軽くシャワーを浴びてから、俺は今日の仕事にかかることにした。
いつまでも農協からトラクターを借りっぱなしというわけにはいかない。
レンタル費用も馬鹿にならないし、何より、自宅までの道を一刻も早く整備しなければならないのだ。
「うおおおおお!」
俺は再びトラクターに乗り込み、エンジンを唸らせる。
昨夜の奇妙な体験は一旦頭の隅に追いやり、目の前の雑草と低木との戦いに集中する。
そうだ、俺は今、現実世界で生きているんだ。
戦国時代なんて、ただの夢、幻覚に決まっている。
そう自分に言い聞かせながら、俺は一心不乱に道を切り開いていった。
数日後、トラクターを返却するためにふもとの農協を訪れた。
「嶺くん、なんだか顔色悪いよ? 目の下に隈もできてるし」
窓口で対応してくれた茜さんが、心配そうに俺の顔を覗き込む。
「あー、いや、大したことないですよ。ちょっと夜更かしが続いて……」
「夜更かし?」
「ええ、毎晩の晩酌が祟ったのかも……あはは」
しまった、と口走ってから後悔したがもう遅い。
俺が苦し紛れにごまかすと、茜さんはますます心配そうな顔になり、「飲みすぎは体に良くないよ。何か悩み事でもあるなら、お姉さんに相談しなさい」と母親のようなことを言われてしまった。
やめてくれ、その優しさは今の俺には毒だ。
余計に心配される始末となり、俺は早々に退散することにした。
それからの俺の毎日は、奇妙なルーティンで構成されるようになった。
昼間は道の整備や家の周りの草刈りに精を出し、汗を流す。そして夜になると仏間にこもり、あの永禄時代への転移を試みるのだ。
「よし、今夜こそ!」
盃に注いだお神酒をくいっと一息に飲み干す。
……しーん。
「だめか……」
飲む量を少しずつ変えたり、飲むタイミングをずらしてみたりと、あらゆるパターンを試すが、一向にあの不思議な空間へ行ける気配はなかった。
日を追うごとに、俺の心の中では疑念がむくむくと大きくなっていく。
ひょっとしたら、飲み慣れない酒のせいで本当に幻覚でも見ていたのかもしれない。
最初のあの日、たまたま疲れとアルコールが重なって、とんでもない白昼夢ならぬ白夜夢を見ただけなのではないか。
だが、スマホに残されたあの満天の星空のデータは紛れもない現実だ。
何度AIに解析をかけても、その答えは変わらない。
『撮影年代:永禄三年』
AIがポンコツでない限り、このデータは嘘をつかないはずだ。
「なんで行けないんだ……」
俺はネットで調べまくり、かなり星空について詳しくなっていた。
星には毎日の変化と季節ごとの変化の他に、歳差運動という長い周期で大きく変化するものがあり、それらを調べることで、ある程度の年代が特定できるという知識まで身につけていた。
そして、その専門的な分析サイトを使っても、あの写真の解析結果は何度やっても『永禄』になるのだ。
幻覚なんかじゃない。
あの時、一回きりだったとしても、二日に渡って何度も行けたのは事実だ。
初日は何度も行き来できたのに、二日目は一往復だけだった。
……ひょっとして、これってかなり不安定なシステムなのか?
行けたり行けなかったりする、ランダムなイベントなのかもしれない。
そう考えると少し怖くなってきた。
もし向こうに行ったきり、戻ってこれなくなったら……。
いや、待てよ。
逆に考えるんだ。
今のところ、必ず戻ってこれている。
ならば問題ないはずだ……たぶん。
それでも好奇心には抗えなかった。
俺は結局、昼は土木作業員、夜は自称・時空ジャーニー研究家という謎の二重生活を、毎日飽きもせず一月近くも続けてしまった。
暇になるたびに夜空や星の動きについて調べるようになり、俺は天文オタクと呼んでも差し支えないレベルの知識を蓄えていた。
尤も、この知識を誰に披露すればいいのかは全く分からない。
農協の茜さんに「実は僕、歳差運動にも詳しいんですよ」なんて言っても、「そうなんだ、すごいねー」と優しく微笑まれて会話が終了するだけだろう。
ならコンビニの澄田さんに?「は? キモッ」とゴミでも見るような目で睨まれそうだ。
やめておこう。
そんな奇妙な日々が一月近く経ったある日のことだった。
いつものようにネットを眺めていると、カレンダーに『新月』の文字が表示されているのが目に入った。
「明日は新月か……。そういえば、前にあちらに行った時も、新月の日だったような……」
ピコン、と俺の頭の中で何かが繋がった気がした。
もしかして、条件は『夜』だけじゃない。
『新月の夜』という特定のタイミングが必要なのではないだろうか。
逸る気持ちを抑え、完全に外が暗くなるのを待つ。
そして、すっかりルーチンと化している儀式めいた飲酒の挑戦をしてみる。
ごくり。
……きた! きたきたきた!
一月ぶりに味わう、あの世界が歪む感覚。気づけば、俺は再びあの荘厳な仏像が鎮座する『祠』の中に立っていた。
「やった! やったぞ!」
俺は思わずガッツポーズをしていた。
これで、偶然や一回ぽっきりではなく、ある条件がそろえば何度でも行けそうだと確かな目途が付いたのだ。
興奮冷めやらぬまま、俺はすぐに一度令和に戻ることにした。
まだ検証すべきことがある。
見慣れた仏間に戻り、すぐさま再度挑戦する。
もう一度、お神酒を口に含む。しかし……今度は行けなかった。
「あれ? なんでだ?」
最後に向こうに行った時と同じように、一往復だけが可能だった、ということか?訳が分からない。
だが、一つだけ確かなのは、新月が重要なキーワードであるということだ。
翌日、つまり新月当日。
俺は昨日以上の期待を胸に夜を待った。
そして、挑戦。
「行けた!」
祠に転移した俺はすぐさま令和に戻り、間髪入れずに、もう一度挑戦する。
「また行けた!」
何度でも行ける! 今日は、何度でも往復できることが判明した。
なるほど、新月当日はフリーパス状態になるわけか。
さらに翌日。
新月の次の日だ。
この日も同様に挑戦してみると、結果は一回だけだった。
ここで、俺はようやく結論に達した。ここ3日間の検証の結果から、この時空転移システムは月齢と深く関係しているらしい。
新月当日:何度でも往復可能のフィーバータイム。
新月の前日と翌日:それぞれ一往復のみ可能。
それ以外の日:転移不可。
「なるほどな……。月に三日間だけ開く、時空のゲートってわけか」
まるで限定イベントのクエストみたいじゃないか。
そう考えて行動する方がよさそうだ。
俺は、この画期的な発見を自作の『時空ジャーニー研究ノート』に太字で書き記した。
ちょうどその頃、俺の現実世界でのクエストも一つの区切りを迎えていた。
庭の草刈りがほぼ終わり、自宅まで続く道の整備も、なんとか人が普通に歩けるレベルまでには回復したのだ。
すると、夜な夜な家の周りにタヌキが出るようになった。
俺が捨てた生ゴミを漁っているらしい。
修験者ごっこで山を歩いている時には、遠くにイノシシやシカの姿も見たことがある。
そういえば、子供の頃に祖母から「この山には熊もいるから、気をつけなさいよ」と聞かされたこともある。そろそろ本格的な獣害対策を始めないとまずそうだ。
俺は早速ネットで熊について調べてみた。
本州に出るのはツキノワグマで、比較的おとなしい性格だと聞いている。
それでも、ばったり出くわしたら心臓が止まる自信がある。
怖くなったのでついでに調べると、北海道に生息する日本最強の陸上生物ヒグマは、歴史上でも一度も本州には生息していなかったそうだ。
つまり、永禄の時代でもこの尾張の山に出没するのはツキノワグマまでで、ヒグマは出ないということらしい。少しだけ安堵した。
だが、動物ついでに調べてみると、別の危険な生物の存在が浮上した。
『狼』だ。現代の日本では絶滅したとされているが、この永禄の時代にはまだ普通に生息していたはずだ。
集団で狩りをする知能の高いハンター。
これは熊よりも厄介かもしれない。
狼対策も考えておく必要があるな。
臭気の強いものでも投げつければ、どうにかなりそうだが……。
ふと、俺の頭に、ある悪魔的な缶詰の名前が浮かんだ。
シュールストレミング……。
いや、あれはダメだ。
最終兵器すぎる。
万が一、祠の周りでぶちまけでもしたら、臭すぎて俺自身が戻ってこれなくなりそうだ。
もし俺が転移している先がこの令和の自宅周辺と地理的に同じ場所で、時代が戦国時代までさかのぼったとすると、現代以上に獣害は深刻なはずだ。
森は深く、動物たちの数は今よりもずっと多かっただろう。
夜の山を軽々しく歩き回るのは自殺行為に等しいかもしれない。
「……準備が必要だな」
急ぎ、熊対策から始めることにした。
俺は再びPCに向かい、色々とネットで調べて通販サイトのカートに次々と商品を放り込んでいく。
クマ撃退スプレー(最強力タイプ)、超音波式動物撃退器、そして爆竹。
さらに農協で電気柵のセットも注文することにした。
「これで、俺の城は鉄壁だ……!」
俺は来たるべき戦国サバイバル生活に備え、着々と準備を進めていくのだった。
その姿は、もはや引きこもりの元サラリーマンではなく、秘密基地を作る少年のように、どこか楽しげですらあった。