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改訂版 行き来自由の戦国時代  作者: へいたれAI
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第二十三話 絶対零度の報告会

 

 時は流れ、2月。

 尾張の山々にもようやく春の気配が訪れ始めていた。

 澄田さんがこの永禄の世に滞在して、早くも一ヶ月が経とうとしている。

 大学生である彼女もそろそろ令和の日常に戻らなければならない時期だ。


「澄田さん、本当に、この一ヶ月、助かった。ありがとう」


 令和へと繋がる祠の前で俺は改めて彼女に頭を下げた。


「いえ。私にとっても非常に有意義なフィールドワークとなりました。 むしろ感謝しているのはこちらのほうです」


 澄田さんはいつも通りの冷静な口調でそう言ったが、その表情はどこか名残惜しそうに見えた。

 この一ヶ月、彼女はただの知識の提供者ではなく俺たちの村のかけがえのない仲間だった。

 特に陶器作りの時のあの楽しそうな顔は忘れられない。


「また、いつでも、来てくれよな」


「…… はい。 もちろんです」


 彼女は小さく、しかしはっきりと頷いた。

 俺たちは大森たちに見送られながら時空のトンネルへと足を踏み入れた。

 眩い光が収まった先は、見慣れた婆ちゃんの家の仏間だ。


「ふう、着いたな。さて、それじゃあ……」


 俺がリビングへ向かおうと一歩足を踏み出した、その瞬間だった。


「嶺さんっ!」


 仏間の襖が勢いよくスパン! と開かれ、そこから弾丸のような勢いで人影が飛び出してきた。

「うわっ!?」

 俺はその衝撃にたたらを踏む。 俺の胸に顔をうずめてきたのは、間違いなく茜さんだった。


「おかえりなさい! ずっと、ずっと、待ってたんだから!」


 甘えた声とシャンプーのいい匂い。

 一ヶ月ぶりの茜さんの感触に、俺の心臓が馬鹿みたいに跳ね上がる。


「あ、茜さん…… ただいま」


「うん、おかえり……。ねえ、嶺さん。約束、覚えてる?」


「え、約束?」


 俺がきょとんとしていると、茜さんは顔を上げ潤んだ瞳で俺をじっと見つめてきた。

 その瞳には熱っぽい何かが宿っている。


「…… キス、してくれるって」


「ええっ!? いや、そんな約束は……!」


 してない! 断じてしていない!

 だが茜さんは俺の言葉など聞こえていないかのように、ぐいっと俺の顔を引き寄せた。

 そして――

 俺の唇に、柔らかくて温かい感触が押し当てられた。


 しまった、と思った時にはもう遅かった。  

 前回のような可愛らしいものではない。

 もっと、こう、確かめるような、想いの全てをぶつけてくるような、そんな濃厚なキス。


 俺の頭は完全に真っ白になった。

 な、な、な…… なんだ、これは……

 だが、それ以上に俺の全身を凍り付かせる出来事がすぐ隣で起こっていた。


 ごおおおおおっ……

 比喩ではない。

 物理的に気温が急降下したかのような凄まじい冷気と圧力を俺は肌で感じていた。

 恐る恐る、本当に、恐る恐る、視線だけを、横に向ける。


 そこに立っていたのは、能面のような無表情の澄田さんだった。

 いや、違う。 無表情ではない。

 その瞳は絶対零度の光を放ち、俺と俺にキスをしている茜さんを射抜くように見据えていた。

 その視線はまるで南極の氷でできた鋭利な刃物のようだ。

 刺されたら血も出ずに凍傷で細胞が壊死しそうだ。


 ひっ……!

 俺は声にならない悲鳴を上げた。

 まずい。

 これはまずい。

 人生で、最大級に、まずい状況だ!


 俺は慌てて茜さんを引き離そうとした。

 だが彼女はまるでそれを予期していたかのように、俺の首に回した腕にさらに力を込めてくる。

 しかも、だ。


 彼女は俺と唇を重ねたまま、ちらりと澄田さんの方に挑戦的な視線を送ったのだ。

 見せつけている!

 女の戦い、という言葉が脳裏をよぎった。

 だがこれは戦いなどという生易しいものではない。

 これは戦争だ。 俺というちっぽけな領土を巡る二大勢力の全面戦争だ!


 やめろ……! 

 やめてくれ……! 

 俺のライフは、もう、ゼロだ!


 俺が心の中で必死に白旗を振っていると、ついにしびれを切らした第三勢力…… いや、絶対零度の女神が動いた。


「…… そこまでです」


 地を這うような低い声。

 次の瞬間、澄田さんの手がにゅっと伸びてきて、俺の腕と茜さんの腕をそれぞれ鷲掴みにした。

 その握力は人間の女性のものとは到底思えなかった。


「い、いった……!」


「きゃっ!?」


 俺と茜さんの情けない声が同時に上がる。

 澄田さんは、何も言わず、俺たち二人を、まるで、言うことを聞かない、二匹の子犬でも引きずるように、ずかずかと、リビングへと、連行していった。


 リビングのソファに俺と茜さんを乱暴に座らせると、澄田さんは仁王立ちで俺たちを見下ろした。


「これより、永禄尾張における、この一ヶ月間の活動報告会を、開始します」


 有無を言わさぬ冷徹な声。

 報告会? 

 今、この状況で? 

 どう考えても、それどころではないだろう!

 

 だが、澄田さんのあの氷の瞳に睨まれると俺は「はい」としか言えなかった。


「まず、経済基盤の拡充について。先日完成した新型荷車の量産体制が軌道に乗り、清州への安定した物資輸送が可能となりました。 これにより炭の売上は前月比で150パーセントの増加を記録しています」


 淡々と、しかしどこか棘のある口調で報告は続く。

 俺はただ背筋を伸ばしてそれを聞くことしかできない。

 俺は、ただ、背筋を伸ばして、それを聞くことしかできない。

 彼女は澄田さんの報告などまるで意に介していないかのように、そっと俺の太ももの上に自分の手を置いてきたのだ。


「ひっ!?」


 俺はびくっとして肩を震わせた。


「さらに新規事業として陶器の生産を開始。私が現地で指導を行い、草木灰を用いた釉薬の開発にも成功。 第一号製品が完成し、こちらも清州の市場での新たな商品となる見込みです」


 澄田さんの声のトーンが一段低くなった気がした。

 彼女の視線が俺の太ももの上の茜さんの手に一瞬だけ突き刺さる。


 やめろ!

 俺は目で必死に訴えたが、茜さんは悪戯っぽくにこりと微笑むと、今度は俺の手を両手でぎゅっと握りしめてきた。

 しかも指を絡める恋人繋ぎというやつだ。


 俺はもうおろおろするしかなかった。

 右手は茜さんに捕まれ、左隣からは絶対零度の視線が突き刺さる。

 正面の澄田さんからは氷点下の報告が延々と続けられる。

 なんだこの地獄絵図は。


「次に、村のコミュニティ形成について。木地衆との連携が、より一層、強化され、彼らの多くが、我々の村に定住するようになりました。これにより、労働力の安定確保と、技術力の向上が……」


 澄田さんが言葉を続ける。

 だがその額には青筋がぴくぴくと浮き上がっていた。


 茜さんはさらにエスカレートする。

 あろうことか俺の肩にこてんと頭を乗せてきたのだ。

 ああ、もうだめだ……。

 俺は今日ここで死ぬんだ……。

 俺が、人生を諦めかけた、その時だった。


「…… もう、いい」


 意外にも先に音を上げたのは茜さんの方だった。

 彼女は、ぱっと、俺から手を離すと、ふう、と、大きなため息をついた。


「…… 嶺さんの、へたれ!」


 ぽつり、とそんな言葉を俺に残すと、彼女は何事もなかったかのように居住まいを正した。


「で、相談なんだけど、嶺さん。今度、農協で、新しく、直売所を出すことになってね。そこの、ポップのデザインを、ちょっと、手伝って欲しいんだけど……」


 え?

 急に、いつもの仕事の相談?


 だが、目の前の澄田さんのオーラが少しだけ和らいだのを感じて、俺は心の底からほっとした。

 助かった……。

 とりあえず処刑は免れたらしい……。

 その後、俺は二人のなんとも言えない緊張感の漂う空気の中で、茜さんの仕事の相談に乗り、あっという間に時間は過ぎていった。

 俺は、この、気まずすぎる空間から、一刻も早く、逃げ出したかった。


「そ、そうだ! 茜さん、頼んでおいたサツマイモの苗は、どうなった?」


「ああ、それなら、ちゃんと用意してあるわよ。倉庫に」


「よし! じゃあ、俺、それを永禄に運んで、すぐに…… いや、やっぱり向こうの様子も気になるしな!」


 俺は仏間にサツマイモの苗が入った箱をいくつも運び込みながら、できるだけ自然を装って宣言した。


「悪いけど、俺、また向こうに戻るわ! 帰りは……そうだな、一ヶ月後くらいに!」


 我ながら完璧な逃亡計画だった。

 だが、その言葉を聞いた二人の反応は冷ややかだった。


「……ふうん。逃げるのね」


「……ええ。あれは、完全に逃げますね」


 茜さんと澄田さんが顔を見合わせ、ふっと鼻で笑った。その表情は驚くほどシンクロしていた。


「え、いや、逃げるってわけじゃ……」


「いいから、早く行ってくれば? こっちのことは気にしないで」


「ええ。私たちが、何か問題でも?」


 二人はなぜか急に仲良くなったかのように腕を組んで、にこやかに俺を見送っている。

 ……なんだ、この急な連帯感は。


 背筋にさっきとはまた別の種類の悪寒が走る。

 だが、俺にはもうこの場から逃げ出す以外の選択肢は残されていなかった。


「じ、じゃあ、行ってくる!」


 俺はそう言い残すと、転がるように再び祠の光の中へと飛び込んだのだった。

 俺の姿が光の中に消えた後、仏間には二人の女性が残された。

 茜と澄田はどちらからともなく、ふうとため息をつくと顔を見合わせて苦笑した。


「……やれやれ」


「……ええ、本当に」


 二人は再びリビングのソファに腰を下ろした。さっきまでの殺伐とした空気はもうどこにもない。


「……あの様子だと、澄田さん。あなたもこの一ヶ月、あのヘタレに何もされてませんわね? 残念だったわね」


 茜が探るように言った。

 澄田は少し悔しそうに唇を噛んだ。


「……ええ。まあ。ですが、それは大峰さんも同じでは? あの見せつけるようなキス以上のことは何もなかったのでしょう?」


「……うっさいわね」


 茜はぷいっと顔を背けた。

 しばらくの沈黙。

 やがて二人は同時に顔を上げた。そしてその口から、全く同じ言葉が飛び出した。


「「……へたれがっ!!」」


 その言葉は奇妙なほど綺麗にハモっていた。

 二人は一瞬きょとんとした後、どちらからともなくくすくすと笑い出した。


「あははっ! なによ、それ!」


「ふふっ……。いえ、全く同感でしたので」


 さっきまでの敵意は嘘のように消え去っていた。

 そこには同じ悩みを抱える同志のような不思議な連帯感が生まれていた。


「もう、ほんっと、信じられない! こっちが、あんなに勇気出してるのに!」


「理解不能です。彼の、あの異常なまでの危機回避能力と恋愛に対する鈍感さは。研究対象として非常に興味深いですが」


「研究対象ですって? いいわよ、共同研究といきましょうじゃないの」


 茜はそう言うと不敵な笑みを浮かべて澄田に手を差し出した。


「こうなったら私とあなたで協力して、あの超弩級のヘタレを一人前の男に育て上げるしかないわね!」


 澄田は一瞬驚いたように目を見開いたが、やがてその提案の意味を理解し、ふっと口元を綻ばせた。


「……なるほど。共同戦線、ですか。合理的です。彼のあのヘタレステータスを改善しない限り、我々どちらにとっても未来はない、と」


 彼女は差し出された茜の手をしっかりと握り返した。


「ええ。謹んでお受けいたします。この、史上最も困難なクエストを」


 こうしてヘタレな主人公、嶺を全く知らないところで、二人のヒロインによる奇妙で、そして強力な共同戦線が結成されたのであった。

 彼が次に令和に戻ってくる時、一体どんな運命が待ち受けているのか。

 それは、まだ誰も知らない。



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