第十六話 駐在員たちの甘くて多忙なスローライフ
先輩たちが令和に帰還したのを見届けた直後、もはや刃物のように鋭い冷気が容赦なく俺と詩織の身体に突き刺さってきた。
「…… さて、と」
大森は両手を擦り合わせながら、隣に立つ愛しい恋人の母栖に向き直る。
「詩織、寒いだろ? とりあえず、あっちの廃村まで移動しよう。 ここよりはマシなはずだ」
「うん……! 海図くん、なんだか、すごく頼もしい……!」
寒さで頬を赤らめながらも、うっとりとした瞳で大森を見つめる詩織。
この状況で惚気けていられる俺たちも大概能天気なのかもしれない。
だが、その能天気さが、この極寒の戦国時代を生き抜くための唯一の武器になる気もしていた。
大森たちは先輩が置いていってくれた大量の物資の中から、最低限の荷物を選び出す。
まずはロケットストーブ。
こいつがなけりゃこの冬は越せないだろう。
それから寝袋と非常食、そして何より重要なのがLEDのランタンだ。
闇の中、ランタンの頼りない明かりだけを頼りに、大森たちは先輩が拠点にしているという廃村へと向かった。
枯葉を踏みしめる、ザク、ザクという自分たちの足音だけがやけに大きく響いている。
「…… 着いたな。 ここが、俺たちの城だ」
たどり着いたのは、村の中でも一際大きな長の屋敷だった。
さすがに先輩が手入れをしていただけあって、他の廃屋よりは遥かに状態がいい。
「うう……。 お家の中なのに、外と変わらないくらい寒いね……」
「だめだこりゃ。隙間風大歓迎のオープンな作りだな。 …… よし、詩織! 早速、文明の利器を投入するぞ!」
「うん!」
大森たちはまるで秘密基地を作る子供のように、目を輝かせた。
まずは持ち込んだロケットストーブの設置だ。
ホームセンターで鍛えた俺のDIYスキルが今こそ火を噴く時だ。
囲炉裏のある広い部屋の隅に手際よくストーブを据え付け、煙突を壁の隙間から屋外へと伸ばしていく。
ランタンの薄暗い明かりの下での作業は思った以上に難航したが、詩織が健気にライトで手元を照らしてくれたおかげで、なんとか設置を完了させることができた。
「よし……。 点火、するぞ」
ゴクリと詩織が喉を鳴らすのが分かった。
大森は持参した薪を炉の中にくべ、着火剤を使って火をつける。
ゴーッという音と共に、勢いよく炎が燃え上がった。
「「おおーっ……!」」
二人して思わず歓声を上げる。
みるみるうちにストーブが熱を帯び、じんわりとした暖気が周囲に広がり始めた。
それと同時に、囲炉裏にも炭を熾して火を入れる。
二つの熱源。
これでなんとか凍え死ぬことはないだろう。
だが、それでも火の側から少し離れるだけで背筋がゾクッとするような寒さが襲ってくる。
「やれやれ、手強いな、戦国の冬は」
「でも、海図くんと一緒だから、なんだか楽しい。 冒険みたいだね」
隣に座った詩織が、大森の腕にこてんと頭を乗せてくる。
…… だめだ。
可愛すぎる。
大森はこの愛しい存在を守るためなら、なんだってできる、と固く誓った。
翌朝。
大森たちは夜が明けるのを待って、祠に残してきた全ての物資を屋敷へと運び込む作業を開始した。
何度も山道と屋敷を往復する重労働。
だが、二人でやれば不思議と辛くはなかった。
「この部屋を、俺たちのサンクチュアリにするんだ」
運び込んだ荷物を整理しながら、大森は一つの計画を立てていた。
囲炉裏のある部屋は広すぎて暖房効率が悪すぎる。
そこで、奥にあるもう少し狭い部屋にストーブを移設し、その部屋を徹底的に断熱仕様に改造することにしたのだ。
「壁の隙間を全部埋めるぞ。天井もだ。 持ち込んだ断熱材と、この辺りの土や藁を使って、完全密閉空間を作り上げるんだ」
「わかった! 私、土をこねるの、手伝うね!」
そこからの俺たちの毎日は、まさにDIY一色となった。
外はキンキンに冷え込んでいる。
暦の上では十一月だが、感覚的には真冬だ。
大森たちのスローライフは、甘々な恋愛を育む暇もないほどやることに満ち溢れていた。
まあ、もともと好きなことだから苦ではないんだが。
むしろ、詩織との共同作業は楽しくて仕方なかった。
時間がどんどん溶けていく。
拠点整備の次に俺たちが取り掛かったのが、あの露天風呂の内風呂化プロジェクトだった。
せっかくの温泉もこの寒さでは湯上がりで一発で風邪をひいてしまう。
日中の比較的暖かい時間帯にしか入れないなんて、宝の持ち腐れになってしまう。
「よし、囲うぞ。 竹で、小屋を作るぞ」
「賛成! 風よけがあったら、全然違うもんね!」
俺たちは近くの竹林からノコギリで大量の竹を切り出してきた。
それを組み上げて骨格を作り、周りをぐるりと囲っていく。
小屋の内側をブルーシートで隙間なく覆い、風の侵入を完全にシャットアウトする。
天井からはキャンプ用のLEDカンテラを吊るした。
三日後。
大森たちの目の前には青くて少し不格好だが、それでも立派な「内風呂」が完成していた。
「できた……! 俺たちの、専用貸切風呂だ!」
「すごーい! 海図くん、天才だよ! これなら夜でも入れるね!」
その日の夕方。 俺たちは早速完成したばかりの内風呂へと向かった。
湯気が立ち込める小屋の中は、まるで別世界のように暖かい。
二人で湯船に浸かり、一日の作業の疲れを癒やす。
カンテラの柔らかい光が湯面に反射してキラキラと輝いてとてもきれいに見える。
「…… なんか、夢みたいだね。 戦国時代で、拓也くんと二人で、温泉に入ってるなんて」
「ああ。 最高の、スローライフだろ?」
「うん……!」
この瞬間、大森たちの多忙な毎日は確かに報われたのだった。
こうして、屋敷に戻り、暖かい部屋で眠り、日が昇れば作業に出かけ、一日の終わりには温泉で疲れを癒やす、という生活のリズムができていった。
風呂の次は廃村の整備だ。
持ち込んだエンジン草刈り機を唸らせ、伸び放題だった雑草を刈り払っていく。
ブゥゥゥンという機械音が静かな山にこだまする。
まるで俺たちがこの村の新たな主になったことを宣言しているかのようだった。
「スローライフって言うから、もっとのんびりしてるのかと思ったけど、やること尽きないね!」
「農閑期でこれだからな。春になったら畑も始めないといけない。 忙しくなるぞー」
「望むところだよ! 海図くんと一緒に、美味しい野菜、作るんだ!」
村の中が綺麗になってくると、今度は村全体を囲う柵が欲しくなってきた。
これもまた竹を使って簡単な囲いを作っていく。
獣除けと、ささやかな防衛のためだ。
そんな、ひたすら何かに打ち込む生活を、半月ばかり続けた頃だった。
ある日の昼下がり、異変は突然訪れた。
「海図くーん! た、大変!」
屋敷で作業をしていた俺の元に、詩織が血相を変えて駆け込んできたのだ。
その腕には、小さな二つの影がぐったりと抱えられている。
…… なんだ?
子供…… か?
「どうしたんだ、その二人は!?」
俺が驚いて問いかけると、詩織は少し困ったように、しかしどこか悪戯っぽく笑ってこう言った。
「いきなり、二人の子持ちになりました…… かな?」
冗談を言っている場合か。
詩織の話による
大森はまず二人の状態を確かめた。
ガリガリに痩せて服はボロボロ。
顔色も土気色だ。
これはまずいな。
数日は何も食べていないんじゃないだろうか。
「詩織、すぐにおかゆを作ってくれ! とにかく、何か腹に入れさせないと!」
「うん、わかった!」
詩織が急いで台所へ向かう。
大森は二人の子供をそっと囲炉裏のそばの暖かい場所に寝かせた。
しばらくして、詩織が作った湯気の立つおかゆが運ばれてくる。
その匂いに子供たちのうち、年上らしい少年の方がうっすらと目を開けた。
「…… 大丈夫か? 食べられるか?」
少年は警戒心も露わに俺たちを睨みつけていたが、隣で眠る妹らしき少女の姿を見ると、こくりと小さく頷いた。
ゆっくりと、一口、また一口とおかゆを口に運んでいく。
その姿はまるで飢えた獣のようだった。
二人が少し落ち着きを取り戻し、体力が回復するのを待ってから、俺たちはゆっくりと事情を聞き始めた。
だが、これがなかなかに骨の折れる作業だった。
少年は妹を庇うように頑なに口を閉ざしている。
そんな兄の背中に隠れるようにして、妹はただおびえた目で俺たちを見るばかりだ。
「大丈夫だよ。私たちは、君たちに、何もしないから」
詩織が根気強く、優しい声で語りかける。
その真摯な態度が通じたのか、何時間も経った後で少年はぽつりぽつりと語り始めた。
「…… 近くで、戦が、あった」
彼の話は衝撃的なものだった。
自分たちの村が戦に敗れ、勝った方の兵士たちが「乱取り」に入ってきたのだという。
家は焼かれ、大人たちは殺されるか、あるいは奴隷として連れて行かれそうになった。
彼はその混乱に乗じて必死で妹の手を引き、山の中へと逃げてきたのだ、と。
話を聞き終えた時、詩織の目には大粒の涙が浮かんでいた。
彼女は何も言わずに立ち上がると、二人の子供をぎゅっと抱きしめた。
その姿を見て、俺はもう彼女の決意が固まっていることを悟った。
やれやれ、こうなったらもうテコでも動かないだろうな、詩織は。
「…… 海図くん。 この子たち、私たちが、この村で保護しよう」
やっぱり、そうきたか。
「詩織、気持ちは分かる。分かるが、そんな簡単な話じゃ……」
「簡単じゃないのは、わかってる! でも、見殺しになんてできないよ! この子たちの、どこに行けって言うの!?」
詩織の剣幕に、大森はぐっと言葉に詰まる。 確かに彼女の言う通りだ。
俺たちの、気まぐれなスローライフ。
そのすぐ隣には、こんな過酷な現実が当たり前のように存在している。
…… これが、戦国時代、なのか。
大森は深いため息をつくと、一つの妥協案を提示した。
「…… 分かった。 だが、俺たちだけでは決められない。 次の新月に、先輩が迎えに来るはずだ。 まずは、その時まで、俺たちが保護する。 それで、いいな?」
「…… うん。 わかった」
詩織はしぶしぶといった様子で頷いた。
こうして、大森たちの二人の生活は予期せぬ形で四人の共同生活へと変わっていった。
兄の名は、茂助。 十歳くらいだろうか。 妹の名は、彩。 八歳くらいに見える。
それからの日々、詩織はまるで本当の母親のように二人の面倒をかいがいしく見た。
今までどんな暮らしをしてきたのか。
周りの大人たちはどんな話をしていたのか。
俺たちは二人の心の傷を刺激しないように、慎重に、気長に話を聞いていった。
大した情報は得られなかったが、やはりこの辺りの地域では小規模な戦が頻繁に起こっていること、そして負けた側の村が悲惨な目に遭うのは日常茶飯事だということが分かった。
大森たちが作り上げたこのささやかな楽園が、いかに脆く奇跡的なものなのかを、思い知らされた。
「茂助くん、彩ちゃん。字、読んでみる?」
ある日、詩織が持ち込んだノートとペンを取り出し、二人に文字を教え始めた。
もちろんこの時代の人間が読むようなくずし字なんかじゃない。
俺たちが小学校で習った、ごく普通の「ひらがな」だ。
「あ、い、う、え、お……。これが、『あ』だよ」
最初は戸惑っていた二人も、詩織の優しい教え方に次第に興味を示し始めた。
茂助がおずおずと覚えたての文字をノートに書いていく。
その拙い文字を、詩織が満面の笑みで褒め称える。
その光景はまるで本当の家族のようだった。
気がつけば、空にはもうすぐ新月が訪れようとしていた。
十二月。 先輩たちが迎えに来る頃だ。
「…… もう、一ヶ月か」
囲炉裏の火を見つめながら、大森はぽつりと呟いた。
この一ヶ月で、俺たちの生活は大きく変わってしまった。
ただの恋人同士のお遊びのスローライフのつもりだった。
それが今や、二人の幼い命を預かる責任ある立場になっている。
やれやれ、とんだ置き土産を拾ってしまったもんだ。
先輩は、俺たちのこの状況を見て、一体なんて言えばいいのか。




