第十三話 時を超えた温泉ツアーと、新たな野望
ぐにゃり、とした時空の歪みが収まり、俺の足が、見慣れた仏間の畳を、しかし少しだけ頼りなく踏みしめる。
一ヶ月ぶりの、令和の空気だ。
鼻孔をくすぐる、微かな線香の香りが、無事の帰還を実感させてくれる。
10月22日、夜。
永禄の山中とは比べ物にならない、文明社会の静かな夜。
しん、と静まり返った婆さんの家に一人きり。
さっきまで、パチパチと燃える囲炉裏の音と、風が木々を揺らす音に囲まれていたせいか、その静けさが、妙に心に沁みた。
「……さて、と」
独り言を呟き、俺はまず、スマホの電源を入れた。
Wi-Fiの扇マークが点灯した瞬間、ピコン、ピコン、と小気味よい通知音が連続で鳴り響く。
溜まっていたメッセージの一斉受信だ。
そのほとんどは、どうでもいい広告やニュースだったが、その中に、俺の心を温かくする名前が二つ、並んでいた。
『嶺くん、大丈夫? もう一ヶ月経つけど、ちゃんと帰ってきてる? 心配だから、戻ったら絶対連絡してね!』
『嶺さん。無事を祈っています。連絡を待っています』
茜さんと、澄田さんからのメッセージ。
日付は、ちょうど俺が向こうに渡ってから一ヶ月が経った、まさに今日の日付だ。
……やれやれ。律儀なことだ。
俺は、ニヤリと口角が上がるのを自覚しながら、それぞれに『無事帰還。詳細は明日』とだけ返信を送った。
すぐに既読がつき、茜さんからはスタンプの嵐が、澄田さんからは『良かったです』という、彼女らしい短い安堵のメッセージが返ってきた。
それだけで、一ヶ月間のソロプレイの疲れが、フッと軽くなるような気がした。
翌日。
俺たちは、昼過ぎに、あの思い出深い大懸神社のすぐ近くにある、レトロな喫茶店で落ち合った。
俺が店に入ると、窓際の席に座っていた二人が、パッと顔を上げる。
「嶺くん!」
「嶺さん!」
一ヶ月ぶりに見る二人の顔。
茜さんは、心なしか少し痩せたように見える。
心配をかけてしまったんだろうか。
一方の澄田さんは、いつも通りクールな表情だが、その瞳の奥に、確かな安堵の色が浮かんでいるのが見て取れた。
「お待たせしました。……って、茜さん、なんかやつれてません?」
「当たり前でしょ! どれだけ心配したと思ってるの! 毎日、ちゃんとご飯食べてたの? 夜はちゃんと眠れた? 変な獣に襲われたりしなかった?」
マシンガンのように繰り出される質問に、俺は苦笑するしかない。
、相変わらずの心配性だ。
「まあまあ、落ち着いてください。そのための報告会ですから。……澄田さんも、ご心配おかけしました」
「……いえ。無事なら、それが一番です」
ふい、と視線を逸らす澄田さん。
その耳が、ほんの少しだけ赤いことに、俺は気づいてしまった。
……なんだ、可愛いところあるじゃないか。
俺は、ウェイトレスさんから受け取ったお冷やを一気に飲み干すと、もったいぶるように、今回の冒険の成果を語り始めた。
「……というわけで、だ。俺たちが転移した先は、異世界なんかじゃなかった。なんと、この町の、永禄三年の世界だった、ってわけだ」
俺が、大懸神社の名前を出してそう結論づけると、二人は、鳩が豆鉄砲を食らったような顔で、ポカンと口を開けていた。
「え……?」
「うそ……」
「マジなんだな、これが。証拠に、ほら」
俺は、スマホを取り出し、禰宜さんと話した内容や、遠くから撮った楽田の市場の写真を二人に見せる。
「……信じられない。ここが、400年以上も前の……」
「すごい……。本当に、戦国時代なんだね……」
二人は、小さな画面に映し出された、荒々しくも活気のある過去の世界に、完全に心を奪われているようだった。
ふっふっふ。
驚くのはまだ早い。俺は、ニヤリと笑い、とっておきの情報を切り出した。
「そして、だ。俺は、拠点にしている廃村の近くで、とんでもないものを発見してしまった」
「とんでもないもの?」
「ああ。それは……天然の、温泉だ!」
俺が、ドヤ顔でそう言い放った瞬間。
「「温泉!?」」
二人の声が、綺麗にハモった。
特に、茜さんの食いつきっぷりは、想像以上だった。
ガタッ、と椅子を鳴らして身を乗り出してくる。
「お、温泉!? 入れるの!? どんな感じなの!? お肌すべすべになる系!?」
「ちょ、茜さん、落ち着いてください。店の中です」
澄田さんが冷静に窘めるが、その澄田さん自身も、心なしか前のめりになっている。
……やっぱり、温泉というワードは、女性にとってキラーコンテンツなんだな。
「その話、詳しく聞かせてもらえるかしら、嶺くん?」
茜さんの目が、キラキラと、いや、ギラギラと輝いていた。
こうなると、もうテコでも動かないだろう。
やれやれ、だ。
俺は、崖から湯気が立ち上っていたこと、匂いや色はないがお湯がこんこんと湧き出ていたことを、写真を見せながら説明した。
すると、茜さんが、バン!とテーブルを叩いて叫んだ。
「行こう! 今すぐ!」
「はあ!? 今すぐって、どこにですか!」
「決まってるでしょ! その温泉があったっていう場所に!」
無茶苦茶な提案に、俺は呆れて天を仰いだ。
だが、その横で、澄田さんが、顎に手を当てて、ふむ、と呟いた。
「……それも、いいかもしれませんね。地形は、400年前と現代で、そう大きくは変わっていないはず。場所を特定しておく価値はあります」
「澄田ちゃんまで!?」
まさかの援護射撃に、俺は完全に孤立無援となった。
……こうなったら、もう、行くしかないわけだ。
俺は、深いため息をつき、喫茶店の伝票を掴んだ。
「……分かりましたよ。行けばいいんでしょ、行けば!」
結局、俺たちは、茜さんの運転する車で、俺の記憶を頼りに、問題の山へと向かう羽目になったのだった。
「……で、本当にここなの?」
山道を少し登った、開けた場所。
俺が「ここだ!」と指差した崖の前で、茜さんが、心底呆れたような声で俺に問いかけた。
無理もない。
そこには、ただの、何の変哲もない、乾いた崖があるだけだった。
湯気どころか、水が流れたような痕跡すら、どこにも見当たらない。
「いや、絶対ここだって! ほら、この特徴的な形の岩! 写真と見比べてくれよ!」
俺は、必死にスマホの画面と、目の前の崖とを交互に指差して説明する。
すると、今まで黙って周囲を観察していた澄田さんが、静かに口を開いた。
「……嶺さんの言う通り、地形は一致していますね。ですが、温泉が枯渇している。……考えてみれば、当然かもしれません」
「え、どういうこと、澄田ちゃん?」
茜さんが首を傾げる。
「この400年以上の間に、地殻変動が起きても不思議はありません。大きな地震が何度かあれば、水脈が変わったり、温泉が枯れてしまったりすることは、十分にあり得ることです」
「そうよね、あれから何度もここも大きな地震もあったでしょうから」
澄田さんの理路整然とした説明に、茜さんも、なるほど、と納得したように頷いた。
……って、俺が一番納得してるんですけど!
マジか、俺の温泉、幻だったのか……。
俺が一人でショックを受けていると、今度は、茜さんが、キラリと目を輝かせて、とんでもないことを言い出した。
「……そっかぁ。じゃあ、仕方ないわね」
「ええ、まあ……」
「本物を、見に行くしかないわね!」
「……は?」
俺と澄田さんの声が、またしてもハモった。
この人、発想が飛躍しすぎだろ。
「だ、だって、気になるじゃない! 戦国時代の、幻の温泉! これはもう、行くしかないでしょ!」
やれやれ、またこのパターンか。俺が頭を抱えていると、ふと、澄田さんが、何かに気づいたように呟いた。
「……今日なら、好都合ですね」
「え?」
「今日は、十月二十三日。旧暦で言えば、九月朔日。つまり、新月です。私たちが向こうへ渡れる条件は、おそらく新月の夜。問題ありません」
……新月。
その言葉に、俺はハッとした。
そうだ。俺が向こうに行けるようになったのも、帰ってきたのも、全て新月の期間だった。
そして、澄田さんの言う通り、俺たちが初めて転移した永禄三年のあの日も、月齢を調べたら新月だった。
永禄三年と、令和六年。
460年以上もの時を隔てて、月齢が、ほぼピッタリと重なっている。
……なんだ、この偶然は。
いや、偶然にしては、出来すぎている。
もしかして、この奇妙なシンクロニシティこそが、俺たちを時空の狭間へと誘う、トリガーになっているのだろうか……?
まるで、誰かが仕組んだゲームのようだ、なんて考えが、頭をよぎる。
「……決まりね! 一旦、嶺くんちに戻って、夜になったら出発よ!」
俺が思考の海に沈んでいる間に、話はとっくに決まってしまっていたらしい。
茜さんが、高らかに宣言し、俺たちは、再び車に乗って婆さんの家へと戻ったのだった。
その夜。
俺たちは、万全の準備を整えて、再び仏間に集まっていた。
「うわっ! 何これ、すごい明るい!」
茜さんが、興奮した声で、手にした懐中電灯を仏間の天井に向ける。途端に、昼間のような強烈な光が、部屋全体を照らし出した。
「だろ? ネットで見つけた、某国の軍用モデルの放出品らしい。これなら、夜の山道でも安心だ」
俺は、得意げに胸を張る。一人一本ずつ、同じものを用意しておいた。
だが、その強烈すぎる光を見ているうちに、俺は、ある重大な問題に気がついた。
「……って、待てよ。この明るさ、麓から見えたら、めちゃくちゃヤバくないか?」
「「あ」」
二人の動きが、ピタリと止まる。
「た、確かに……。山の中に、こんな不自然な光があったら、絶対怪しまれるわよね……」
「夜盗か、あるいは敵方の間者かと、騒ぎになる可能性が高いですね」
まずい。完全に、準備の方向性を間違えた。これは、ステルスミッションの難易度が、一気にハードモードに跳ね上がったんじゃないだろうか。
「……いいか、二人とも。絶対に、光を上に向けるな。足元だけを照らすように、絶対に光がこの山から漏れないように進むぞ!」
「「りょ、了解!」」
俺たちは、急遽、作戦を練り直し、固い決意を胸に、盃の神酒を呷った。
ぐにゃり、と視界が歪み、ひんやりとした夜の空気が肌を刺す。
永禄三年の、大懸神社裏手の山中。
俺たちは、息を殺し、懐中電灯の光を地面に押し付けるようにしながら、慎重に、崖を目指した。
まるで、特殊部隊の極秘任務だ。
そして、ついに、俺たちはその場所にたどり着いた。
「……あった」
暗闇の中、白い湯気が、ぼんやりと立ち上っている。
岩の隙間からは、こんこんと、温かいお湯が湧き出ていた。
「うわあ……! ほんとだ……! 湯気が出てる……!」
「これが、400年前の……」
二人は、目の前の光景に、感嘆の声を漏らしている。
俺は、持ってきた空のペットボトルを取り出し、その奇跡のお湯を、なみなみと汲み上げた。
「よし、今日のところは、これを持って一旦帰るぞ。長居は無用だ」
「えー! もうちょっと見てたい!」
「ダメです。見つかったら、クエスト失敗どころの騒ぎじゃ済みませんから」
俺は、駄々をこねる茜さんの首根っこを掴むようにして、その場を後にした。
こうして、俺たちの、弾丸戦国温泉ツアーは、お湯という戦利品を手に、無事に幕を閉じたのだった。
令和に戻り、俺たちは、改めて今後の計画について話し合った。
「で、このあとどうするの、嶺くん? この温泉」
茜さんが、戦利品のお湯が入ったペットボトルを大事そうに抱えながら聞いてくる。
「決まってるだろ。向こうでも、ちゃんとした風呂に入りたい。だから、この温泉を利用できるように、現地を整備する」
「整備って……まさか、お風呂、作るの!?」
「そのつもりだ。だから、こっちで、あらかじめ準備をしたい。また、しばらく行けないかな」
俺の「露天風呂建設プロジェクト」の発表に、二人は、目をキラキラと輝かせていた。どうやら、この壮大な計画に、異論はないらしい。
それからの数日、俺は、久々に令和での日常に戻った。
まずは、一ヶ月も放置してしまった、婆さんの家の庭にある菜園の手入れだ。
幸い、季節が夏ではなかったおかげで、雑草が少し生えている程度で、壊滅的な被害は免れていた。
むしろ、蕪なんかは、いい感じに育っていて、来月には収穫が望めそうだ。
「……でも、夏場は、水やりを自動化しないと、さすがにマズいな」
今後の長期滞在を見据えて、新たな課題が浮上する。
これも、クエストの一つと考えるべきか。
そして俺は、来るべきDIYプロジェクトのために、ホームセンターへと足繁く通った。
ノコギリ、金槌、スコップ、水平器……。日曜大工に必要と思われる工具類を、片っ端から買い揃えていく。
幸い、先日の松茸フィーバーで得た臨時収入が、まだ潤沢に残っていた。
婆さんから相続した貯金や、俺の退職金には、一切手をつけずに済んでいる。
「……松茸、か」
工具を車に積み込みながら、俺は、ふと考えた。
向こうの世界の、ただのキノコが、こちらの世界では、大金に化けた。
……これって、つまり。
永禄時代の産物を、令和で売る。そして、令和の製品を、永禄時代で活用する。
これって、立派な「貿易」なんじゃないだろうか?
現に、松茸で、俺は相当儲けた。来年は、もっと計画的にやれば、さらに大きな利益が見込めるかもしれない。
俺は、自分の考えに、ゴクリと喉を鳴らした。
ただのタイムスリップじゃ、終わらない。
これは、とんでもないビジネスチャンスになるかもしれない。
俺は、これから始まるであろう、壮大なプロジェクトに思いを馳せ、ニヤリ、と口の端が吊り上がるのを感じていた。
戦国露天風呂の次は、時空を超えた貿易商社だ。
俺の人生、一体どうなっちまうんだか。
だが、悪くない。
むしろ、最高に、ワクワクしてきやがった。
あ、椎茸と松茸について澄田さんに聞くのを忘れていたな。
今度聞いてみよう。




