第一話 ギブアップして、引きこもる
『もう、どうにでもなれ』
独り言をつぶやいた瞬間、俺は改めて自分の置かれている状況を思い出し、吐き気にも似た感情がこみ上げてきた。
俺の名は平田嶺、25歳。
ついこの間まで都内の小さなメーカーで修理担当として働いていた。
肩書は地味だが、仕事内容はもっと地味。
しかも俺の手にかかると、エアコンは冷風と暖房を同時に吐き出し、電子レンジは「チン」ではなく「ポン」と爆竹みたいな音を鳴らす。
――職場に一人は欲しい“トラブルメーカー枠”として重宝され……いや、されてなかったな。
「おい平田、またお前か!」
係長の甲高い声が脳内で再生される。
あの声は今も耳の奥にこびりついて離れない。
彼の趣味は、些細なミスを針小棒大に騒ぎ立て、全社員の前で俺を吊るし上げること。
そしてその陰で糸を引いていたのが課長だった。
課長は取引先との癒着と不正なキックバックにどっぷり。
しかも、その罪を俺になすりつけようと企んでいた。
「平田くんがやったってことで、どうかな?」
ニヤニヤ笑いながらそう告げられたとき、俺の中で何かがプツンと切れた。
――人生スイッチ、強制シャットダウンである。
そこから俺は孤軍奮闘。
証拠を集めるため、深夜まで残業。
ゴミ箱からシュレッダー紙を拾い集めては、パズルの亡霊のように並べ直す。
断片がつながった瞬間の快感はあった。
だが、そのときの俺の目は血走り、同僚からは「シュレッダー平田」とあだ名をつけられていたらしい。
まったくありがたくない称号だ。
その努力の甲斐あって、不正の罪を着せられることは免れた。
だが代償は大きかった。
職場の空気は最悪。
互いを監視し合い、会議室では「平田くんってどうしてそんなことするんだろうね」と毎日同じ話題が繰り返される。
トイレの個室に入れば、隣から「カシャ」とスマホのシャッター音がする。
完全に俺は社内スパイ映画の主人公だった。
そんな息苦しい日々の中で、唯一の救いは新人の田中さんだった。
俺の教育係をしていた子で、いつも笑顔。
そんな彼女に俺は密かに心を寄せていた。
だが、その彼女も憔悴していた。
「平田さん、大丈夫ですか……?」
俺が戦っている間、誰よりも心配してくれていた。
だがその心の隙間に、笑みを浮かべた先輩が入り込む。
「田中ちゃん、大変だったね。俺が話を聞いてあげるからさ」
聞こえのいい言葉を並べ、肩を抱く。
まるで恋愛ドラマのテンプレ。
しかも、それは俺の目の前で展開された。
会社の飲み会の帰り道。終電を逃した、というお決まりの口実。
タクシーに乗り込む彼女が、一瞬だけ俺に視線を送った。
「平田さん……ごめんなさい」
その瞳は助けを求めていた。
だが、彼女の手は先輩に強く引かれ、窓ガラス越しに見えたのは、頬を撫でながら満足げに笑う先輩と、目を伏せる彼女の姿だった。
翌日、彼女は俺と目を合わせなかった。
首筋にはうっすらと赤い痕。
俺のメンタルは、当然のように砕け散った。
正義を貫いたはずなのに、残ったのは孤独と絶望だけ。
「……もう、無理だな」
そう悟った俺は会社を辞め、数年前に亡くなった祖母の実家に戻ることにした。
親戚中が相続で揉め、最終的に誰も欲しがらなかった山奥の家だ。
押し付けられたときは「ふざけるな」と思ったが、今はむしろ好都合。
誰とも会わずに済むのだから。
都内のアパートを引き払い、いざ祖母の家へ。
だが現実は想像以上に過酷だった。
「これ……道なのか?」
雑草に覆われ、アスファルトがかろうじて顔を出すだけの細い道。
まるでRPGで“この先危険”と警告されるエリアのようだ。
車が通れるのか怪しい。
いや、もはや車に謝ったほうがいいレベルだ。
ここは限界集落どころか、その“跡地”。
かつての住民は風に吹かれ、「おつかれさまでした」と消えていったに違いない。
「やれやれ……開始早々ラスボス戦じゃないか」
とはいえ奇跡的に電波は拾えるらしい。
そこは元修理工の腕の見せどころ。
アンテナを立てて角度を調整したら、なんとかネット環境を作ることができた。
俺にとってはまさに“文明との最後の糸”。
もしこれが途切れたら、俺はただの“山の変人”になってしまう。
だが問題は物資補給だ。
「Amazon Primeでもここまでは来ないよな……」
結局、山を降りたところにある商店を利用するしかない。
名前は「山の子」。
コンビニっぽいが、商品のラインナップは独特だ。
それでも、この店が俺のライフラインであることは間違いない。
片道一時間以上の買い出しは修業僧のようだが、「山の子」で買い物するたびに“日常クエストをクリアした感”が得られる。
――そう、俺の人生はもうサバイバルRPGになったのだ。
孤独に引きこもった俺は、こう思う。
正義を貫いても誰も救えない。
だが“笑い”と“生き延びる工夫”なら、案外人はなんとかなる。
「もう、ギブアップはやめようかな……いや、そもそも戦う必要あったのか?」