陛下がしつこいから、ちょっと王都に来ただけなのに ~「既成事実を作って、結婚しましょう!」と迫ってきた伯爵令嬢となぜか結婚することになりました。でも、有能でめちゃくちゃかわいい。
おいおい、勘弁してくれよ。
陛下がたまには王都に顔を出せっていうからさー。北の辺境に叛意はないことを示すために来たただけなのに……。
確かに王都で腹に一物も二物も抱えた貴族と上っ面だけの社交をするのは苦手だ。
距離も遠いし、金もかかる。
でも、ここ数年本当に忙しかったんだ。
早期リタイアして母とのんびりしたいと言う父から辺境伯を継ぎ、普段から魔獣討伐に精を出し、ほぼ二年おきに起こる魔獣暴走を収める。
それ以外に領主としてやらなければいけないことは山積みだし、冬は雪の深い土地なので備えなども必要だ。そんな中で部下と共に魔獣暴走の原因を探って、それの根絶に走り回った。
やっと落ち着いて、陛下からの催促の書簡が百通を越えて最後には「北の辺境はなにか腹に飼っている虫でもいるのかな?」なーんて言われたら、来ないわけにいかないじゃん!
だから遠路はるばる王都まで来ただけなのに。
それなのに俺は、なんでこんなワケ分かんないものと対峙しているわけ?
泣く子も黙る戦闘狂と言われる男は、ただただ困惑していた。
目の前に突如として現れた鮮やかな赤。
それは一人の美しい女だった。
王宮で寝泊まりしている場所は、陛下が暇な時に呼び出せるようにと陛下の私室の傍に誂えられた最高級の客室。
その近くの廊下なのだから、ネズミ一匹入り込めないはず。
近衛騎士以外の帯剣は許されず、魔法も無効になる王宮の深部。
どうやら転移かなにかの魔法を使って現れたようだが、彼女を見張っている存在を感知して警戒を緩める。彼女を泳がせることが目的なのか、局所的に魔法無効が解除されているようだ。
体のラインにぴったり沿う真っ赤なドレスは胸元をしっかり隠しているくせに、腿辺りからスリットが入っていて、白くて綺麗な足が覗いている。腰までまっすぐに伸びた黒髪がなびいて、ドレスの赤を引き立てていた。
警戒する俺のきつい眼差しにひるんだ様子もなく堂々としている。
ん? 俺、陛下に囮として使われてるの? ハニートラップとか暗殺者の類なの?
ドレスのスリットから、すらりと伸びる足から目が離せない。
誰にも言ったことがないのになぜバレた?
俺は胸派でも尻派でもなく、足派だ。それにかわいい系よりキレイ系が好きだ。
もうぶっちゃけ、めちゃくちゃタイプのど真ん中。
出で立ちや態度は立派だが、隙だらけで感情や気配を消す気もないようだ。あまりに素人くさい。いやいや、そう装っているだけかもしれない。
今までハニートラップを仕掛けられたことはないが、かかる奴のことをバカだと思っていた。でも、そのことを五体投地して謝りたい。確かにこんなに好みの女なら罠でもなんでも飛び込んでしまうのが男の性だろう。
「サマンサ・クレイトン、伯爵令嬢、十九歳。可愛げはないですけど、それなりに整った顔立ちで、肌もぴちぴちですわ、伯爵家の侍医に健康で子を成せる体だと診断されています。伯爵家の後継ぎとして育てられたので、マナーと教養は身に付いています。空間魔法と錬金術が得意です。社交経験はほとんどないですけど、辺境ではお茶をしているより魔獣と戦う時間の方が多いですよね? こう見えて空間魔法以外も得意なので戦えます」
ヘンリーが固まったまま戸惑っているうちに、女が勝手に自己紹介をして用件を話し始めた。
名前を聞いて、ピンとくる。
あれじゃん!!
陛下がひっそりと王家の影にしようとしている令嬢じゃん!!
自分の懐刀であり王宮の筆頭魔法師のヨーナスをわざわざ家庭教師に派遣して、様子見していた空間魔法の家門に生まれた魔力量の多い伯爵令嬢。
類まれなる才能を開花させたとの報告を受けて、ちょうど婚約破棄されたから王家の影にスカウトしようかなって言っていた気がする。
な ん で 俺 の 前 に 現 れ た ?
頭を高速でフル回転させる。
勘弁してくれよ……俺は頭脳派じゃなくて肉体派なんだよ……。
「マクファーレン辺境伯様。悪くない話だと思います。ほぼ二年周期で襲ってくる魔獣暴走を北の辺境で押さえ、さらに昨年その原因を突き止めたとか。これだけ名声と地位が高まってしまい、面倒くさいお相手を押し付けられそうで困っているとお聞きしたんですけど。貴族だけでなく、いよいよ陛下も動かれるとか……今回の王宮への滞在も一週間後の年に一度の夜会のためでしょう? そこで褒賞を与えられるとか?」
しかも、なんで俺の個人情報が駄々漏れなの?!
「私、こう見えて自分のお世話は自分でできますし、自分の身も守れます。婚約破棄されましたが、相手が妹と浮気して子ができたという相手有責のもので私に非はありません。結婚相手として、いかがですか? 反故にされてはたまらないので、まずは既成事実を作りましょう!」
えーと、この子、婚約破棄されて自分で進路を切り開こうとしているんだな……?
で、自分で縁談を見繕おうとしている、体当たりで。
ヘンリーを選んだのは確かに見る目がある。
実家や婚約者の生家、いや王都で暮らす貴族が辺境伯に盾突くことはできない。北の辺境が国境沿いの山脈から襲い来る魔獣を止めなかったら、自分達の領地が危険にさらされるからだ。しかも、ヘンリーは陛下と幼馴染で個人的に仲がいい。
結婚したら、辺境で生家の家族や元婚約者と縁を切って暮らせる。
辺境でなら彼女の魔法の腕も存分に振るえるだろう。
えーと、でもなんでそれで「既成事実を作って、結婚しましょう」ってなるわけ???
普通に縁談を進めるのでは、だめなの? 貴族令嬢ならもっと穏便にさ。
たぶん俺、断らないよ?
ああ、家庭環境が複雑で不遇な境遇に置かれているんだっけ?
それなら伯爵家当主を通してというのは難しいのか……。
「ええっと? 早まっちゃいけない。えーと、婚約者が妹と浮気したんだね。それでヤケになってるのかな? だめだよ、一時の感情で動いては……」
俺としても結婚相手にと望んでくれた彼女を逃したくない。でも、手順を踏んで関係を進めたい。
「……そうですか。まぁ、殿方にも好みがありますからね。一番条件が良かったんですが、次を当たりましょう」
彼女は本気だ。
胸元から次の候補者の名が連なるリストを出したとき、頭がカッとした。
いや、ちらっと白い胸元が見えたからじゃないよ。
第二、第三の結婚相手の候補のリストを検分しはじめたからだ。
俺をどこかで密かに見ていて、好きになっちゃったとかじゃないの?
本当に条件で選んだだけなの?
俺が断ったら、他の男に行くの?
そんなの嫌だ!
「待て待て待て」
なのに出たのは情けない声で。
「悠長にご相談している暇はないんです。返事は『はい』か『いいえ』の二択です」
「わかった! わかった、受けてたとう!」
彼女との結婚に否やはない。
年の差が気になるけど、彼女は十九歳。成人してデビュタントも済ませている。問題ないだろう。
だが、体目当てだと思われるのは嫌だった。だから、ゆっくり関係性を作りたい。君が大事だと示したい。と思った瞬間に落下した。
一瞬、床が抜けたのかと思ったら全然別の場所にいた。
彼女を抱き留めて、受け身をとると思いのほか床が柔らかくてそのまま転がった。
辺りを見回すと、窓も扉もない狭い部屋で柔らかい床だと思ったのは大きなベッドだった。
彼女は転移魔法の使い手なのだろうか?
陛下からは王家の影になれるほどの、特殊魔法の使い手としか聞いていない。
この部屋からは魔法の気配が漂っているが、物理的な罠などはないようだ。
自分達が転がっているのがベッドの上なのに気づき、慌ててブーツを脱ぐ。
ヘンリーがもたもたしているうちに、サマンサの方がハイヒールをベッドの脇に揃えて脱いで、さらにドレスを脱ごうと手をかけている。
え? 有言実行するタイプ?
彼女の事情を聞いてから、陛下に掛け合って伯爵家と話し合って……。
ヘンリーの頭の中にあった段取りがガラガラと崩れていく。
「ちょちょちょっと待った。もう、待って。最近の若い子なんなの? 行動力が怖い」
「年齢は十五歳しか違いませんよ。すみません。初めてで知識がなくて。そういったことをするのには裸になるのでしょう?」
えーと、初めてなんだよね?
なんでそんな度胸があるの?
次々と仕掛けてくる彼女にひたすら翻弄される。
「いや、最終的にはなるけど! でも、情緒とか前置きとか色々あってね……てゆーか、ここどこなの? なんなの? 陛下のトラップなの?」
腕の中にある柔らかい体や甘い香り。
スリットからのぞくスラリとした白い脚。
頭が沸騰して本能にぐらりと持っていかれそうになるのを、なんとか堪える。
一番手ごわかった魔獣を思い出す。
それと対峙した時のゾッとするような場面を蘇らせて、気持ちを鎮めた。
腕の中にいる彼女がヘンリーの顔を両手で引き寄せると、触れ合わせるだけのキスをした。そして余韻を楽しむように唇に指を滑らせる。
頭の奥の線がぷつっと切れる音がした。
自分の両頬に添えられた彼女の両手に、自分の手をそれぞれ絡めてそのままベッドに押し倒す。
ヘンリーに上から見下ろされても彼女は怯えるどころか、柔らかく微笑んだ。それが本当に望むものだと言うように。
ヘンリーには直観でわかった。
きっとサマンサは今、体を繋がないと、するりと自分の所から逃げていく。
「本当に俺が結婚相手でいいんだな? こう見えて一途でね。後で思ってたのと違ったとか、止めたいとか聞かないからな?」
北の辺境の人間は伴侶と定めた相手への執着がすごいと、彼女は知っているのだろうか?
彼女から視線は外さずに、窮屈な騎士服の襟元をくつろげる。
あーあ。あとから陛下にめちゃくちゃ説教されるだろうな……。
大事な影候補に手を出したこと。
十五も年下の女性に翻弄されたこと。
初めに彼女の澄んだ黒い瞳に射抜かれた時から、わかっていた。
ヘンリーはすでに彼女に落ちている。彼女が悪女でもなんでも。どんな事情や思惑があろうとも。
ヘンリーの心は決まっていた。
まずは体から落として、サマンサを辺境に妻として連れ帰る。
「受けて立ちます。願ったり叶ったりですわ」
悠然と微笑む彼女に、頭から余分な思考が吹き飛んだ。
◇◇
ねー、事後ってさー、もっと甘いものじゃなかったっけ?
「時間がありません。ヘンリー様のお部屋に連れて行って下さい」
それは二回戦のお誘いではないんだよね?
豊富とはいえない閨の知識や経験をフルに生かしたおかげか、多少の痛みはあったと思うけどサマンサもそれなりに溶けた顔をしていた気がする。
それなのに男の俺より早く正気に戻り、どこから取り出したのか濡れた布巾で体を拭きあげると、さっさとドレスを身にまとった。
「ヘンリー様も早く服を整えて下さいませ!」
「サマンサ、体は大丈夫?」
サマンサはおかしなものでも食べたような顔でこちらを見ている。
ヘンリー用に差し出された濡れた布巾を受け取る。野戦の経験があるおかげで着替えは早い。
「どうした?」
「いえ、人に心配されるというのが、新鮮で。私は大丈夫です。急かしてすみません。昼間に抜け出したので、夕食までに戻らないといけなくて。次はヘンリー様の泊まっている部屋を直接訪れてよいですか? 場所さえ分かれば行けるので、帰る前に場所を教えて欲しいのです。申し訳ありません。今日は説明している暇がありません」
サマンサが壁の傍に寄ると、そこに覗けるくらいの小さな穴が開いていた。
「ヘンリー様、先ほどの王宮の廊下です。お部屋はこの廊下を渡った先ですか?」
「廊下を渡って、すぐに右へ。そのまま真っすぐ進んで二番目の角を曲がって、一つ目の部屋だけど……」
「わかりました! んー、このお部屋ですか?」
「ああ、そうだけど」
サマンサが覗く穴から見える景色が目まぐるしく変わると、自分が泊る部屋の扉が見えた。
「すみません。お邪魔します」
気付くと、見慣れた客室のソファが見える。
「これで次からは大丈夫ですわ。今日は疲れてしまったので、明日の深夜に来ますね。それではまた」
覗いていた小さな穴が見る見るうちに大きくなって、ぽんと背中を押されると部屋の床にヘンリーだけ転がっていた。振り向くと、いつもの空間が広がっている。壁にも扉にも穴など開いていない。
「本当に意味がわからないんだけど、夢じゃないよね?」
ヘンリーの間抜けな声が広い客室に響いた。
◇◇
サマンサとの邂逅は色々な意味でヘンリーの手に余る。
早々に陛下に報告したところ、深夜に呼び出された。私室でくつろいだ格好の陛下の隣には神出鬼没な王宮の筆頭魔法師のヨーナスもいた。
陛下とヨーナスに隠すことなく一部始終を話した。
「はははっ!! それにしてもヘンリー、チョロすぎます!!」
目の前で腹を抱えて笑っているのは、黒い前髪をぴっちり七三に分けた怪しい風貌の男。柄物のシャツに、ぴったりした黄色のパンツ。いくら異国出身だからって服のセンスが悪すぎる。
「うるさい!! ヨーナスだって自分の好みを体現した存在がいきなり現れたらそうなるだろう!!」
「だって! あの唐変木のヘンリーが! 貴族が令嬢を送り込んでも、なんの関心も示さない北の辺境伯が!」
うろたえて、十五も年下のサマンサにリードを奪われ、ころころと転がされたヘンリーにヨーナスの笑いが止まらない。
ヨーナスが言うように腐っても辺境伯。陛下や王宮の筆頭魔法師のヨーナスとも親しい。
その権力を目当てに、近隣の貴族や土地の有力者から令嬢を紹介されることは多々ある。でも、いつもヘンリーに差し出されるのは小柄でかわいらしいタイプで、顔合わせで相手が怯えて話はなくなる。
「辺境ではそれなりにモテてんのに、女遊びもしないから、特殊な趣味嗜好でもあるのかと思っていたが……」
今回、陛下が王都にヘンリーを呼び出した理由の一つは婚姻を推し進めるためもあった。
ヘンリーも三十四歳。婚約者どころか恋人すらいない。北の辺境伯の血を繋ぐことは大事な役目だ。
魔獣討伐に精を出すヘンリーは、身長こそ高くないものの厳つい体つきで顔をはじめとして肌には数多の傷跡がある。
王都ではさっぱりだけど、辺境ではそれなりにモテた。強さこそが男という価値観だし、顔は貴族らしくそれなりに整っている。
でも差し出されるかわいらしい令嬢にも、身を寄せて迫って来る辺境の肉感的な女達にも食指が動かなかった。
「情けないということは自覚していますよ。まずはサマンサについて教えてください。彼女は一体何者で、なんの能力を持っているんですか? 俺にはさっぱりわかりません」
陛下やヨーナスから聞いていたのは、彼女が王家の影になれるほどの能力を持つことと、不遇に身を置いているということぐらい。
「ヘンリーが骨抜きになるのも仕方ないですねー。サマンサは自慢の弟子ですからね!!」
なぜかヘンリーに向かって誇らしげに胸を張るヨーナス。
「なぜ無属性持ちが伯爵家なのか疑問に思ったことはないか?」
酒を傾けながら、陛下が問う。
確かに高位貴族は基本属性である水・火・土・風の家門で占められている。生活に必要なものであり、攻撃にも防御にも使える基本属性は最も尊いものとされているからだ。
無属性とはそれ以外の特殊魔法を持つ家門である。有名なところでは空間のクレイトン伯爵家、転移のサットン伯爵家だろうか。
「物を収納する空間魔法も離れた場所へ移動する転移魔法も、その技術はすごいものだ。しかし不安定な魔法で、魔力量が少なければ大したことができないからでしょう? 伯爵家で妥当だと思いますが」
「そうだ。使い道がない些末な力だと思われている。だが、たまたま魔力量の多い子に魔法のセンスがあって、努力をすることが苦にならなかったら?」
「……それがサマンサだとでも?」
「無属性を持つ家は王家も常に監視している。いつ国をひっくり返すような者が現れるかもしれないからな。サマンサは生まれた時から魔力量が多かった。だから、下手な家庭教師が付くよりはとヨーナスを派遣したのだが……」
「オー、僕のせいじゃないですよー。ちゃんと手を抜きました。魔法の基礎については教えましたが、無属性の魔法について具体的なことはなに一つ教えていません。僕の片言混じりのテキトーな指導で、あの子はグレイトな才能を自分で花開かせちゃったんですよ!」
ヨーナスはデカい図体をくねらせながら言い訳をしている。
「ま、錬金術まで教えちゃったのは間違いだったのかもしれませんけどね。でも錬金術だって、平民がたしなむものですし。物と物を掛け合わせて少しの魔力を注いで別の物を作る。誰でも知っている技術です。でも、僕が教えたのはそれだけでーす」
「ヨーナスのせいではないのはわかっている。たまにいるんだ、魔力量と魔法のセンスを持ち合わせた彼女のような逸材が。無属性の伯爵家は魔力を多く持つ子が生まれぬよう、勤勉に魔法の力を伸ばさぬよう王家が手を回している。彼女は虐げられる中で、その力を暴走させることも他人に危害を与えることもせず、ひたすら自分を守るために使い、そして成長させた」
病弱で可憐な妹に夢中で、無関心な両親。
成長して健康になってからも、我儘でひたすら姉の物を欲しがる妹。
愛情はなくとも信頼していた婚約者も結局、彼女の孤独を理解することもなく最後に彼女を裏切った。
自分の大事な物を取られるから錬金術を磨いて、妹に取られた物を作り出すようになった。
そして二度と取られないように、作り出した魔法空間に収納して隠した。
やがて過酷な環境に疲れて一人静かに過ごせる場所を求めて、自分の作り出した魔法空間に逃げ出した。
魔法で作り出した空間には、命ある物は入れられない。そんな常識をブチ破って。
そして自分だけが入れる魔法空間に、錬金術を組み合わせて、どんな部屋でも作り出せるようになった。
ヘンリーが引きずり込まれたのも、彼女が魔法で作った空間なのだろう。
さらに彼女は魔法空間の出入り口を好きな場所に設定できるようだ。それは転移魔法をも兼ねる力。
「あれは人が持つには恐ろしい力だ。だから、いっそのこと王家の影にしようと思ったんだけどね……」
「勧誘する前に、サマンサがヘンリーをゲットしちゃいましたねー」
「なるほど……」
腕を組み、自分にもたらされた情報をなんとか処理する。
どうやらサマンサの特殊能力の開花は、陛下やヨーナスの意図したものではないらしい。
このままサマンサとの結婚の話を進めるにあたって、不安はあった。
これまであまり幸せではなかったサマンサの相手がヘンリーでいいのかと。
十五という年齢差。貴族らしくない容姿。無骨で気も利かない。
そして煌びやかな王都を離れ、田舎へと連れて行くことになる。お洒落なドレスも華やかな夜会も無縁の世界。
辺境は北の山脈から来る魔獣と戦う地域で、二年ごとの魔獣暴走こそ消滅させたが、ちょろちょろと魔獣が出没することは変わらない。
でもサマンサは人の理を越えた力を持つことにより、ヘンリーと結婚しなかったら王家の影になるしか道がない。
ヘンリーは腹を決めた。
「陛下、褒賞としてサマンサとの結婚を望みます」
「ああ、いいよー。それだけだと、形にならないから報奨金もつけるわ」
覚悟をして吐いたセリフに、あっさり肯定の言葉を返される。
「え? いいんですか? それだけの力を持つサマンサを手離して……」
「過ぎたる力は身を滅ぼす。って、じーさんの遺言なんだ。なに、今はそこそこ平和だしさ。本当のところ、彼女のことを持て余してたんだよね。もう王家の影にするしかないかなって思ってたけど。その筋の家門や孤児で見込みのある者と違って、幼い頃から訓練や教育を受けているわけじゃない。王家の影にしたところで、彼女を縛り付けられる物なんてないだろ? 彼女向いてなさそうなんだよね……。ブチ切れたら簡単に寝首をかかれそうだしな……」
「ふふふっ、そうなったら僕でも止められないかもしれないですねー」
「国に縛り付けるより、お前の愛で雁字搦めにしておいてもらったほうが平和だろ」
「愛って……」
確かに北の辺境の人間の伴侶への執着はすさまじい。
「王家の影にしろ、辺境伯夫人にしろ、国の役に立つのに変わりはないからな。むしろ、王家の影を育成するより、この国でお前の嫁を探す方が難しいだろう?」
「はははっ、間違いないですねー」
こうして最難関かと思った陛下からの結婚の許可はあっさりと下りた。
◇◇
宣言通りサマンサは夜な夜なヘンリーの泊まる客室に現れた。
男の欲を引き出すようなドレス姿ではなく、動きやすそうなワンピース姿だったことにほっとする。
陛下やヨーナスから彼女の事情や能力について一通り話を聞いていたけど、彼女の口からも聞きたかった。
ヘンリーは寝室へと続く扉をぴったりと閉めて、客室のテーブルに向かい合って座り、手ずから紅茶を入れて彼女の話を聞いた。
サマンサは恐ろしく自己評価の低い子だった。
話をよくよく聞くと、仕方のないことなのかもしれない。クレイトン伯爵家という狭い世界しか知らない。褒めてくれたのは一時、家庭教師となったヨーナスのみ。
ヘンリーがサマンサとの結婚を承諾したのも、自分の能力を求められているのであって、自分自身に価値があるなんて思ってもいないようだ。
なんだかそれがさみしいことに思えた。ヘンリーはすでにサマンサにこんなに夢中になっているのに。
きちんと籍を入れて、辺境に連れて行ったら、サマンサを甘やかして思い知ってもらおう。ヘンリーのすでに重くなっている想いを。
サマンサに聞いたところによると、時間がない。
結婚間近だった婚約者を妹に寝取られ、腹に子がいるため、結婚式は姉妹を入れ替えて決行されたらしい。
サマンサの能力の一端を知った元婚約者のせいで、サマンサは伯爵家に軟禁されている。身重の妹の体調が整い次第、一緒に伯爵領に連れて行かれて、そこで無能な妹の代わりに働かされる予定だという。
作り出した魔法空間の出入口を自由に設置する能力のおかげで、今は監視の目を盗んで動くことができる。でも遠距離で能力を使うのは無理なため、短期間で決着をつけないといけない。
一週間後の王宮の夜会。
ヘンリーは目標を定めた。それまでに籍を入れて、夜会で陛下に認められた婚姻であると公表する。
そして堂々と、サマンサを妻として辺境に連れ帰る。
陛下に助力を願って、サマンサの夜会用のドレスを準備した。
時間的にオーダーメイドは難しかったから、既製品に王宮のお針子を動員してもらって手を加えた。サマンサの希望は特にないとのことで、こっそりとヨーナスからサマンサの好みを聞いてアクセサリーの類も含めて用意した。
同時にサマンサの生家であるクレイトン伯爵家で当主夫婦を脅し……きちんと話し合いをして、婚姻届の署名をもぎ取った。頭のおかしい妹夫婦へは話さないように口止めして、サマンサをこっそりと王宮に引き取った。妹夫婦はサマンサが今もおとなしく伯爵邸に軟禁されたままだと思い込んでいるだろう。
さすがに陛下の私室そばの客室というわけにはいかず、高位貴族の夫妻が使用する客室へと場所を移した。ヨーナスから聞いたサマンサの好みをできるだけ反映した衣類や小物を揃えたつもりだ。サマンサが生家から持ち出す物はドレスを含めてほとんどないと聞いていたから。
夜会の前夜、全てをやり遂げたヘンリーは解放感に浸っていた。準備は万全だ。
明日にはサマンサとの婚姻が公のものとなる。
浴室から出てきたサマンサを見て、ヘンリーは慄いた。
知らなかった……。
ソファでのんびり紅茶を飲んでいたヘンリーは頭を抱える。
胸と尻と足以外にもトラップがあるとは!!!
サマンサは夜着ではなく、なぜかドレスを身にまとっていた。
サマンサには着替えの夜着と共に、その上から羽織る分厚いガウンも渡したはず。
妖艶な紫のホルターネックのドレスは体にピッタリで、艶やかな黒髪を片側に流しているサマンサのむき出しの背中の肩甲骨から腰のラインがよく見えた。
申し訳程度に背中の両サイドを覆っている紫の布地のせいで、余計に艶めかしさが強調されている。
背中と腕しか露出していないのに色気がすごい。
女性の背中がこんなに色っぽいなんて誰も教えてくれなかった!
助けてくれ!
新しい扉が開きそうだ。
なんのために固い生地の騎士服を着ていると思っているんだ!
俺の理性よ、仕事をしてくれ!
暴走しそうになるヘンリーのヘンリーをなんとかなだめる。
その時、サマンサの表情が目に入った。
そこにあるのは男を誘うような妖艶なものじゃなくて、さみしそうな色。
「サマンサ、俺は鍛錬や魔獣の事しか知らない。だから今、サマンサが何に悩んでいるのかわからない。どうしたの?」
「いつもはあんなに気持ちを読んで下さるのに?」
初対面では饒舌で、こちらが質問をすればすらすらと答えてくれたサマンサだが、普段は驚くほど静かだ。説明することは得意だが、日常的な会話は苦手らしい。
あまり表情が変わらないサマンサだけど、直観で生きているヘンリーにはその感情や気持ちがなんとなくわかった。だからサマンサの言いたそうなことを、代わりに言葉にしては驚かれていた。
「直観的に分かるものと分からないものがある。特に女性の細やかな気持ちの機微はわからないんだ、情けないことに」
でも、今はなにもわからない。
こんな扇情的なドレスを着て、さみしそうな顔をしている理由が。
「……あんまり良くなかったのかなと思いまして」
サマンサは向かいのソファにストンと腰を落とした。
幼い女の子のように下を向いて、紫のドレスのスカートを握りしめている。
なにが? なんて無粋なことはさすがに聞かない。
なるほど、婚約者を妹に寝取られた心の傷はかなり深いのかもしれない。
「だって妹と彼は毎日、狂ったようにしているから……」
「え?」
「妹のデビュタントの時……二人の初めての夜のことはわからないのですが。毎晩、子がお腹にいると思えないくらい盛っています。妹や母が興奮剤みたいな薬を彼に盛っているのが原因かもしれないけど。ちょっと観察してみたんです。予備知識が必要でしたから。その……殿方を篭絡するのに。ああ、母が愛人と密会してるのも少し見てみました。年を取っても欲はあるのですね。あの時の赤いドレスも、このドレスもお母様が愛人との密会に使用してる物です。ヘンリー様も赤いドレスがお気に召したみたいだから、こちらも拝借してきました。似合ってないですか? そそられないですか?」
「え?」
クレイトン伯爵家は一体、どうなっているんだ?
サマンサの話に混乱したおかげで、冷静さが戻った。
陛下、想像以上に腐ってるみたいですよ。あの伯爵家。
「ヘンリー様があの夜以来、ちっとも手を出してくれないから、不安になりまして……。子を成せなかったら、私、辺境から追い出されるんでしょう?」
「あのね、サマンサ」
綺麗な背中が目に毒なので、俺の上着をかける。
紫のドレスに騎士服の上着。いや、これはこれでまた、そそる。
「信じられないかもしれないけど、俺はサマンサを妻にしたい。会ってまだ短い期間だけど、君に夢中だ。それで一生大事にしたい」
向かいのソファに腰掛けるサマンサの前に跪く。
見上げると困り顔のサマンサがいた。
「今は体を繋げるより、話を聞きたい。そして万全の状態で結婚して、なんの憂いも心配もなく辺境へ連れて行きたいと思っている。サマンサに魅力がないから手を出さないわけじゃない」
「本当に?」
「剣にかけて」
「その代わり、辺境に着いたらサマンサが嫌だって言っても離さないし、毎晩抱くかもしれないよ?」
「よかったです……」
ソファから立ち上がり、ヘンリーに抱き着いてくる。
その甘やかな匂いと柔らかい感触に彼女との一夜の記憶がよぎる。
抱き留めて、胸元に顔をすり寄せる彼女の頭を撫でた。
魔獣をアルファベット順に頭に思い浮かべて、元気になりかけたヘンリーのヘンリーをなんとか宥める。
こうしてヘンリーの鋼の理性のおかげで、色気もそっけもない夜が過ぎていった。
◇◇
年に一度の王宮の夜会で、ヘンリーと並ぶサマンサに人々の視線が集まる。
すらりとした長身で凜とした雰囲気のサマンサ。
身にまとうのは淡いピンク色のオフショルダーのドレスで、そこから覗く鎖骨から健康的な色気が感じられる。
上品なフリルの装飾。ピンクサファイアのネックレス。揃いのイヤリング。一つ間違えば子供っぽく見えるアイテムを、ふわふわと巻かれた黒髪が引き締めている。
「ヘンリー様、すごく見られている気がします。大丈夫でしょうか? 私、どこかおかしいですか?」
これまで出席した夜会では地味で落ち着いたドレスを着ていたというサマンサは普段と違う格好に落ち着かないようだ。
サマンサの好みの物で飾り立てた。
知的な雰囲気で綺麗なサマンサは、実はかわいい物に目がない。ヘンリーの用意したドレスや装飾品に戸惑っているけど、喜んでいるのがわかる。ヨーナスの情報は間違いないようだ。
「サマンサ、似合ってる。かわいいよ」
サマンサは基本、無口だし表情も変わらない。でも素直だから、なにかが漏れ出している。
きっと、『なんでヘンリーは私の趣味を知っているのかしら?』なんて内心首を傾げているんだろう。
「そりゃ、愛の力でしょう」
しれっと答えると、口元が少し緩んだ。
ヨーナスに聞くなんてズルをしてしまったことは内緒だけど。
エスコートする彼女の横顔が少し赤い。
サマンサって綺麗だけど、めちゃくちゃかわいい。
あー。俺の妻だぞって見せびらかしたいけど、誰にも見せたくない……。
デレデレにゆるみそうな顔に、辺境伯としての厳めしい表情を乗せる。
陛下にも祝福され、認められた婚姻であると知らしめた。
彼女の妹はキャンキャンと絡んできたが、辺境伯として圧を掛けると、両親や元婚約者が妹を引きずって退場した。
これで晴れて辺境に行けると思ったら、後日、招かれざる客が王宮までやってきた。
ある意味、魔獣よりバカなのかもしれない。
完膚なきまでに叩き潰されないとわかんないのかな?
夜会の時はしっかり見てなかったけど、これがプライドがクソ高いクレイトン伯爵家のご当主様と愛人が複数いるビッチなご夫人か。
腐った内面とは違い、外面は由緒正しい楚々とした伯爵夫妻といった雰囲気。
続いて入室して来たのは、妹夫婦。
夜会の時のサマンサに対抗してなのか、ふわふわのシルエットのピンク色のドレスにピンクサファイアの華奢なアクセサリーを着けている。
ヘンリーを舐めるように上から下まで見ると、こちらが勧めてもいないのに勝手にソファに腰掛けた。
元婚約者で妹の夫である男は表情の抜けた顔で、あらぬ所を見つめている。
王宮の接待室で、ヘンリーはサマンサの元家族と対峙していた。
「話し合うことなど何もないはずだが。用件はなんでしょうか?」
「辺境伯閣下とサマンサとの婚姻に異議があるわけではないのですが……。閣下にとって、サマンサより妹のアマンダの方がいいのではないかと思いまして」
金の無心でもされるのかと構えていたら、伯爵の口からとんでもない提案が出てきた。
「は?」
「ほら、サマンサって、愛想もなくて不出来でしょう? ご存知ないかもしれませんが、サマンサの空間魔法はサマンサに紐づいたもので、あの子にしか使えません。でも、妹のアマンダは物に空間を付与できるんですよ! 辺境で真にお役に立てるのはアマンダではないかと思いましてねぇ」
ヘンリーの漏れ出す殺気に気づいていないのか伯爵夫人がまくし立てる。
「へー、こちらの種ではない子を孕んだ女を娶れと? 辺境の簒奪でも企んでるのか?」
「ひぃぃぃぃ! めっそうもない! その……不幸なことに子が流れまして……。サマンサには女としての魅力がないですし、子を孕むことのできるかわからないサマンサより、一度は子を宿したアマンダのほうが良いかと! アマンダは家族思いの優しい子なんです! アマンダもその夫も苦渋の思いで申し出てくれたのです! 閣下のためを思って……」
ヘンリーの剣幕に押されながらも、伯爵が自分達の主張を言い切った。
想像の百倍は酷い申し出に、サマンサに内緒で会うことにして良かったと思った。
「俺が聞いたのと違うなぁ? 流れたんじゃなくて、元々、狂言なんだろ? 俺の情報網、舐めないでもらえるかな? 俺、陛下と仲いいんだよね。で、姉の婚約者を寝取って、孕んだって嘘ついて結婚したのに、姉の代わりに辺境伯夫人になりたいって?」
「お姉様が可哀そうでぇ。きっとエイベルに捨てられたと思って、やけになって辺境伯様と結婚することにしたんでしょう? わたくしは子がいないことが判明しましたし。エイベルは元々、お姉様の婚約者でしょ? だから、愛する婚約者をお返ししようと思ったんですぅ」
「そうです、アマンダの優しさなんです」
訳の分からない理屈を並べて涙ぐむ妹とそれを賛美する父親。
元婚約者はひどい顔色をして、頭を垂れている。今頃になって、サマンサの両親と妹の異常さに気づいたって遅いのだ。
大方、妹はバカにしていた姉が綺麗に着飾って大切にされて、辺境伯夫人として陛下や周りの貴族にちやほやされているように見えたのだろう。そして、それに成り代わりたいと愚かなことを考えたに違いない。
それをホイホイ聞く両親も、あわよくば妹とサマンサを取り替えられないかと静かに期待する元婚約者もクソくらえだ。
「黙れ」
ヘンリーが言葉を発した瞬間、部屋の空気が重くなる。
空気が薄くなった空間で、彼らは必死に呼吸をしようとして口をぱくぱくさせている。
ヘンリーは肉体特化型の戦闘狂だけど、魔法だって得意だ。
「大事なことだから、きちんと理解しろ。サマンサを妻に望んだのは俺だ。サマンサじゃないとダメなのは俺の方だ。サマンサは北の辺境伯に求められて嫁ぐんだよ。陛下も認めている。それを伯爵家ごときがゴチャゴチャ言ったところでひっくり返らねーんだよ」
そこで魔法を解除する。
呼吸ができるようになった彼らが魔獣でも見るような目つきでヘンリーを見ている。
「それになぁ、少なくとも俺から見て、お前に女としての魅力なんて一個もないよ」
アマンダを見て、せせら笑ってやる。
「なら、ここで服を脱いであなたに襲われたって言うわ!!」
身体強化して妹の元に一瞬で移動し、喉元の一点に親指を押し当てる。
趣味の悪い香水の匂いがして、顔をしかめた。
ヘンリーは知っている。この醜悪な妹の着ているドレスは人の手がないと脱げないタイプだ。
それに胸派じゃなくて、足派で背中派だし。むしろサマンサならなんでもいいし。サマンサ以外は絶対に嫌だ。
「お前が服をはだけるのと、俺がお前の息の根を止めるのどっちが早いかな?」
「!!!」
「俺さぁ、魔獣ばっかり相手にしてるから人間相手って苦手なんだよね。手加減できなくて。魔獣は会った瞬間に息の根を止めないといけないだろ。お前って俺の愛するサマンサにとって魔獣より害があるってわかってる?」
サマンサと血が繋がっているはずなのに、どこも似ていない女は恐怖から泣きわめき、夫の影へと身を隠した。
ヘンリーは伯爵の頭上から、紙の束をぶちまけた。
紙の束は彼の頭に当たると、ハラハラと部屋中に舞い散った。
それを見た元両親や元婚約者の顔色がさらに悪くなる。
舞い散る書類には王家が伯爵家に忍び込ませた者からの報告や、ヘンリーが調べた伯爵家の裏事情が事細かに記されている。
「伯爵は賭博で借金がかさんでいて、ご夫人や妹殿は男遊びに余念がない。妹殿は結婚する前に数多の男と体の関係があって、堕胎回数は三回。これまでも好き放題してサマンサにだけ我慢を強いていたのに、まだ彼女から搾取する気か? そうだよなぁ、元婚約者殿は領地に還元するつもりだったけど、伯爵はサマンサの稼ぐ金で借金を返すつもりで、ご夫人は愛人に貢ごうとしてたんだもんなぁ。元婚約者殿も、サマンサの魔法で商売をする上に、役に立たない妹の代わりに伯爵夫人の仕事をサマンサに押し付けようとしてたんだろ? そりゃ、サマンサがいなくなったら困るよなぁ……」
そこで一旦、言葉を切った。
元婚約者はサマンサの力を使った商売を思いついた。
貴族の希望する空間を魔法と錬金術で作り出して、時間貸しにしようとしたのだ。
きっとその商売は多くの金貨を生んだだろう。
それだけでなく伯爵夫人として役に立たない妹の代わりに、その仕事をサマンサに肩代わりさせようとしていた。
被害者ぶってる元婚約者だって、腹の黒さは伯爵家の奴らと変わらない。
「伯爵が抱える借金が全額返済できるくらいの金はくれてやる。ただし、辺境伯家は伯爵家と一切の縁を切る。サマンサにも俺にも二度と連絡をしてくるな。陛下も、由緒ある伯爵家を潰すことはお望みじゃないんだよなぁ……」
睨みつけると元両親と元婚約者は震えあがった。
厚顔無恥な妹も俺を見て怯えたままで、もう戦う気力を失ったようだ。
「それじゃあ、お帰りください。道中お気をつけて」
そそくさと帰ろうとする連中を呼び止める。
「ああ、そうだ。この書類に書いてあることは全部、陛下も知っている。王家の影って貴族をくまなく見てるんだよ」
二本の指を折り曲げて彼らの方に突きつけると、ヘンリーはにやりとした笑みを浮かべた。
これでサマンサに関わってくることはおろか、王都で変な噂を流すこともないだろう。
夜会で絡んだ挙げ句の果てに、まだ憎しみを込めてサマンサを見ていた妹。
ああいう輩の気持ちは早めにへし折っておいたほうがいい。
だから伯爵家からのしつこい面会申請に応じたのだ。
帰り際の様子なら、もう関わってくることはないだろう。
足取り軽くサマンサの待つ客室へ戻ると、扉を開けるなりサマンサが飛び込んできた。
「ヘンリー様、ありがとう! うれしかったです」
ぎゅうぎゅうに抱きしめられて、嬉しいけど意味がわからない。
「なんのこと?」
「見てたんです」
「なにを?」
「さっき。全部。伯爵家の人達をヘンリー様がやっつけてくれるところを」
「あー………」
けっこう素に近いガラの悪いかんじだったけど、大丈夫だろうか? 怖いって思われてないかな?
俺をいつもオロオロしてる無害な人間だと思ってるサマンサが、がっかりしてないだろうか?
胸元に顔を押し付けているサマンサの表情は見えない。
「もう幸せで。ヘンリー様と一緒にいると毎日幸せで、どうでもいいって思っていたんです。あの人達のこと。でもスッキリしたし、うれしかったです」
「もっとスマートに断罪できたらよかったんだけどなぁ。結局、中途半端で特に罰らしい罰も与えられなかったし……」
「十分です。かっこよかった、ヘンリー様」
サマンサと見つめ合って、そのまま唇を合わせる。
そんなこんなで叛意はないって示すために王都に行ったばかりに、恐ろしく有能でめちゃくちゃかわいい妻と結婚して、共に辺境に帰ることになった。
これからも、とてつもなく楽しい事や珍妙な事件があれこれ起こりそうな予感がする。
こんな人生も悪くないだろう?
正直な所、悪くないどころか最高だ。