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去年、小吉が腕を負傷して帰った日のことを、琴は生涯忘れないだろう。
雨の中、右腕を血まみれにして帰った兄は、帰宅するなり倒れた。大きな体が土間に転がった。
琴はすっとんできて兄の身体に触れ、灼熱のような熱さに驚愕した。高熱を出している。おまけに、血はどくどくと果てしなく流れていた。
「下加治屋町のことを貧乏人の集まりだと馬鹿にしてきた者がおり、郷中の他の子供と争いになった。小吉はその仲裁に入ったのだ」
刀傷は深かった。
すぐに小吉は寝かされ、医者が呼ばれた。もう右腕は伸びないだろう、と告げられた時、母は涙を堪えた。父は「生きておれば良い」と言った。
「兄い、兄い」
吉次郎が泣きながら兄に縋った。
寝込んでいる小吉は意識もなく、そのまま三日ほど目を閉じていた。
死なずに乗り越えられたのは、体質の強さのためだろう。
腕が伸びないことを知った小吉は、「おいは学問をする」と言葉少なに宣言しただけだった。
父は大きくうなずき、母は静かな目で小吉の大きな背中を見つめた。
家族の誇りの兄である。
「兄い、兄い、琴は、兄いのような人の嫁になりたか」
家にいる時は文机に向かって本ばかり読むようになった小吉である。
まだ右腕の包帯が痛々しいが、起きられるようになったらすぐに造士館に通い始めた。こんなかすり傷、なんともなか、と、言いながら。
その兄の背中にすがって、琴は何度もそう言った。
大きな兄の掌が、どすんと頭に落ちてきて、くしゃくしゃと撫でてくれるのが、琴は大好きだった。
「琴は良いおごじょになる」
小吉は言う。
「良かか。おなごは負けて勝ちを取っとじゃ。男を立てて、裏で勝つとじゃ」
はい、と、琴はその都度頷く。
小吉以上の男子など、この世に存在するとは思えない。兄の言うことは絶対である。男を立てること、と、琴は胸に刻んだ。
今回の殴打事件を、兄はどう考えているだろう。
琴は膝を抱えながら、視線を落とした。地面には小さな虫が這っている。その行方を目で追い、時間を潰した。
いつしか辺りは暗くなった。
家の中の灯は消え、すっかり就寝したらしい。
ごとんと戸が開いたので見上げると、心配そうな顔をした母が見下ろしていた。
「琴、いい加減、何かお話しなさい」
母は言った。
琴は首を横に振った。
ほとほと困り果てたようにため息をつくと、母は、自分の上着を琴の背にかけた。
琴はもう少しで泣くところだったが、俯いて沈黙を守った。母は家の中に戻っていった。琴は再び一人になった。