第46話 鮮明残像17(大事な話がある)
大事な話がある。
重治郎と行哉が「一緒に音楽をやろう」ということになったあの日。
放課後の帰り道、重治郎と別れてから、梅子を家の前まで送り届けた別れ際、行哉は梅子にそう言われた。
今ここで話すのはだめなのかと聞いたら、梅子が静かに首を振ったので、二日後の日曜日、会おうということになった。
行哉は休日も一人で過ごすことが多い。稀に梅子と一緒に出かけることもあるが、それは親が決めた行事などに参加するためだったりする。
梅子は、行哉が余り他人と関わることを好まないのを知っているので、余程の用事がなければ、休みの日にまで会うことはない。こうして梅子の方から「会おう」と誘ってくるのは珍しいことだった。
だから行哉は、梅子の「大事な話」が、何のことを、誰のことを話したいと言っているのか、何となく予想が付いていた。
(多分あいつの事だろうな)
駅前の時計塔の前。
約束の時間の十五分前に待ち合わせ場所に着いた行哉は、周りを見渡す。まだ梅子は来ていないようだ。
少し薄曇りの空模様だが、湿度は高く気温も高い。蒸し蒸しとする空気に、行哉は思わず襟元をあおぐ。
今日は制服ではなく、私服姿の行哉は、グレーのTシャツに、オフホワイトの半袖の開襟シャツを羽織り、黒色のパンツという出立ちだ。
行哉は時計塔の少し先にある、タバコ屋の前に移動する。そこに設置されている灰皿の前で、行哉はシャツの胸ポケットからタバコの箱を取り出した。一本咥えた後ライターで火をつけて、ゆっくりと息を吸い込んで、空に向かってゆっくりと煙を吐き出す。
先日から梅子には、重治郎に対する行哉自身の失態を色々と見られてしまった。
虹を見た日、重治郎の歌を聴いて泣いてしまったこと。
そしてつい二日前、学校の階段で、泣いている重治郎を抱き寄せてしまったこと。あの時梅子に見られてしまった自身の行動は、言い逃れできないものがある。
(我ながら最低だな)
梅子という婚約者がありながら、他の人間、しかも同性に懸想するなど、自分でも本当に最低な奴だと思う。
梅子は自分の家族よりも身近に、長年一緒にいた。この先の牢獄のような人生をずっと共に生きていく、運命共同体であり、行哉の唯一の友なのだ。
その梅子から責められても仕方がないほど、馬鹿な想いを抱いているという自覚はある。責められる覚悟はしているが、後ろめたさに心が重かった。
ため息を吐き出すように一服して、待ち合わせ場所に戻ると、梅子がちょうどこちらに歩いてくるのが見えた。
「ユキくん」
淡い水色のワンピースを着て、白いコットンオーガンジーの帽子を被った梅子が、にっこりと笑って片手を振った。
駅から五分ほど歩いて、賑やかな表通りから、少し入ったところにある裏路地の喫茶店。
観葉植物が置かれ、落ち着いた雰囲気の店内には、ジャズピアノの音楽が流れていて、自分たち以外の客が数組、思い思いに語らっている。
一番奥のソファ席に座り、注文したアイスコーヒーとオレンジジュースを店員が運んできた後、しばらくして梅子が口を開いた。
「せっかくの休みの日に呼び出してごめんね」
謝る梅子に、行哉はぶっきらぼうに答える。
「……特に予定もなかったから、別にいい」
蒸し暑かったせいか少し喉が渇いていた行哉は、用意されたシロップもミルクも入れないまま、アイスコーヒーに口をつけた。一気に半分ほど減らしてグラスを置くと、行哉は伺う様に梅子を見つめて尋ねた。
「それより、大事な話って何だ」
対面に座る梅子は、迷うように少し逡巡してから、困ったような微笑みを浮かべた。
「ユキくんは……人を好きになったことある?」
いきなり核心を突くような梅子の言葉に、行哉は思わずどきりとして、僅かに目を見張る。
「……なんで、そんなことを聞く」
梅子の質問の真意を慎重に推し計りながら、内心の騒めきを落ち着かせるように、行哉は静かに聞き返した。
梅子はオレンジジュースのグラスを手に取って、ストローでひと混ぜする。からりと氷を鳴らして一口飲むと、グラスをテーブルに置いた。
「私たちの付き合いも、もう十年以上になるよね」
行哉と梅子の『婚約者』という関係が始まってから、およそ十二年ほどになる。初めて会った時は、二人ともまだ小学校にも上がっていなかった。
改めて口にしてみると、本当に長い付き合いだな、と梅子は内心苦笑する。
「子供の頃から、ずっと一緒にいたからかな。だから何となく、分かるんだ」
そう言って梅子は、行哉の夜色の瞳をじっと見つめた。僅かに揺れる行哉の瞳が、何を言われるのかと、身構えていることを物語る。
梅子は行哉を真っ直ぐ見据えたまま、単刀直入に尋ねた。
「好きなんでしょう? シゲくんのこと」
行哉は、息が止まるかと思った。
余りにもハッキリと言われて、一瞬時が止まる。
予想はしていた。あれだけ梅子の前で失態をしでかしてしまったのだ。長年一緒にいる梅子に、気づかれない訳がない。
しかし、いざ面と向かって核心をつかれると、はぐらかし誤魔化すための言葉もうまく出てこない。
「……何の冗談だ、それは」
平静を装いながら咄嗟にそう返すのが精一杯の行哉に、梅子は苦笑いしながら言葉を続ける。
「ごめんね、ユキくん」
「……?」
梅子に急に謝罪の言葉を言われて、行哉は眉を顰めた。
「私だけがユキくんの気持ちを知っていて、ユキくんが私の気持ちを知らないのはフェアじゃない。だから、私も正直に言うよ」
そう言って梅子は、一瞬切なげな表情を見せると、また困ったように微笑んだ。
「私も、好きなんだ」
再び行哉の時が止まる。
「……は?」
思わず気の抜けた声が出た。
今、梅子は何と言った?
「私も、シゲくんのことが、好きなんだ」
梅子が繰り返すように改めて口にした言葉に、行哉は目を見開いたまま、固まった。