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そして僕らは。【オリジナル楽曲付小説】  作者: さかなぎ諒
第四章 鮮明残像-僕たちの幻-
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第38話 鮮明残像9(自覚)


「どうだ、梅子。行哉くんとはうまくいっているか?」



 夕食のテーブルの席で、梅子は父に尋ねられて、内心「またか」と思った。

 会社での会議、取引先との打ち合わせ、接待にと日々忙しい父がたまに家に早く帰宅した時、夕食を共にすることがある。すると、梅子が父に必ず聞かれることがあった。


 婚約者・行哉との仲のことだ。

 食卓に着く父、そして母、小学六年生の妹の視線が、梅子に集まる。



「はい。つつがなく」



 梅子はそう言って僅かに微笑む。

 その答えを聞いて、父が「そうか」と頷いて、にたりとして言った。



「もっと仲良くするようにな」




 佐原家との縁談は、元々父・桜田健三が画策したことだった。

 佐原家が経営する本社と、そのグループ企業の一つである父が役員を務める会社。この縁談は、表向きは会社間の結束を深くする為だというが、父の自社内での地位を確たるものにするという狙いもある。


 しかし、父がそれ以上の野心を抱いていることを、梅子は薄々分かっていた。

 自分の娘を次期佐原家当主に嫁がせることで、もっと影響力を得たいのだ。いずれ二人に子が生まれれば、その子が次の当主だ。父はその子の祖父となり、佐原家の内側へ入り込める。

 その立場を利用して、佐原グループの中枢へ食い込んでいくつもりなのだ。


 父はずっと狙っていたのだろう。佐原家の次期当主が生まれるタイミングを。

 行哉が生まれてすぐ、父は行哉の父に根回しを始めたという。

 生まれながらに次期当主と決まっている行哉には、梅子の他に数多の縁談があったことだろう。


 しかし、梅子が婚約者として選ばれた。

 なぜ梅子が選ばれたのかは、梅子自身は分からなかった。だが子どもの頃、父が酔っ払った時にぽろっと溢したことがある。



「佐原家の当主も、実に憐れなことだ。あれだけ華々しい家柄に生まれながら、本当に欲しいものは永遠に手に入らないのだからな」



 そう言って嬉しそうにニヤニヤと笑う父に、梅子は幼心に嫌悪を感じた。



「だがそのおかげで、こちらにも運が廻ってきたというわけだ。呪われた血に感謝せねばな」


(呪われた血?)



 あの時、父の言った意味は分からなかった。

 しかし恐らく父は、行哉の父の何らかの『秘密』を知っていて、そのお陰で梅子が婚約者に選ばれたのだ。


 梅子が六歳、行哉が五歳の時だった。

 初めて顔を合わせた時の、行哉の冷めた表情を、梅子は今でも覚えている。



(――可哀想に)



 梅子が行哉に抱いた第一印象は憐憫れんびんだった。

 いくら政略結婚とはいえ、こんな幼い時分から、自由を奪わなくてもいいのに。

 梅子もその当事者だったが、それ以上に、自分より年下の行哉が、小さいうちから自由を奪われていることが、可哀想だと思った。


 行哉には、喜怒哀楽のうち怒り以外の感情が欠落していた。

 こんなに小さな子供が。

 そのうち、あと一つも無くしてしまうのではないかと、心配だった。

 それから何度会っても、笑うこともなく、いつもつまらなそうに、どこか諦めた目をしている行哉に、心配だけが募っていくばかりだった。



「お前ももう、高校三年生だ。そろそろ覚悟を決めねばならん」



 少し昔のことを思い出していた梅子は、父の言葉にハッとする。



「この婚約は必ず成就させるんだ」



 梅子を見る父の目が細まる。



「卒業したら、すぐに手術を受けろ」






 夕食を終えて、部屋に戻った梅子は、扉を閉めるなり深く息を吐いた。

 せっかく家政婦のスズさんが作ってくれた夕飯も、ほとんど残してしまって、梅子は申し訳なかった。



(明日、スズさんには謝っておこう)



 父と食事する時は、食欲が無くなってしまう。

 梅子は幼い頃から、この父が苦手だった。

 人を何かの目的の道具のように、捉えている父。

 幼かった行哉や梅子のような、そんな小さい子供まで、野心のために利用しようと言う父を、内心軽蔑していた。


 しかし決して父に逆らう事は出来ない。

 小さい頃から、家長である父の言う事は『絶対』と叩き込まれてきたから。


 父は食事の時、母に会社での自分の功績と愚痴を語るだけ語り、梅子には行哉との仲を聞き、妹には勉強や習い事のことを尋ねる。


 行哉との仲を聞かれる時は、吐き気がする。

 父の言う「行哉ともっと仲を深めろ」というのは文字通りの意味だ。暗に催促しているのだ、早く既成事実を作れと。



(気持ち悪い)



 父の顔を思い出すだけで、胃の奥がぐるぐるしてくる。

 毎回同じようなことを話すが、今日は手術のことを言われてしまった。



(手術を受けろ、か……)



 梅子はベッドに腰掛けると、そのままベッドに倒れ込んだ。


 この身体は、ポンコツだ。

 生まれながらに心臓に欠陥があって、これまで何度か入院したりして、その度に何とか生き永らえてきた。

 しかし数年前、ひどい発作を起こしてしまい病院に運び込まれた時、『手術を受けなければ、このままでは二十歳まで持たない』と主治医に言われてしまった。

 今は薬や通院などで誤魔化しているが、確かにだんだんと無理はできないようになってきている。自分の体だ。それは肌で感じる。


 高校卒業後すぐに手術を受けろと、父に言われていた。

 今すぐに受けろ、ではないのは、梅子の病状が佐原家に知られて、梅子が婚約者の役目を下されるのを父が恐れているからだ。

 卒業後海外に留学したことにして、その間に秘密裏に手術を受けろと言われている。

 娘の命が大事、と言うよりは、行哉の婚約者という立場の方が、父にとって大事なのは明白だった。

 こんな病弱な娘では、仮に手術が成功したとしても、満足に妻としての役目は果たせないかも知れないのに。


 病気のことは、行哉も知っている。

 本来なら病気のことを知った時点で婚約解消されてもおかしくないはずだが、なぜか行哉が梅子以外の候補者を受け入れなかった。そのため、今も婚約は継続している。

 しかし、手術が必要なほど病状が悪くなっていることは、行哉にはまだ伝えていない。

 父にも固く口止めされているが、梅子が行哉に言わないでいるのは、父に口止めされているからではなかった。


 梅子は迷っていた。


 手術を受けるか、受けないか。

 生きるのか、諦めるのか。


 三年生になってから、そんなことばかり考える。

 父は、佐原家の何らかの弱みを握っている。

 手術を受けて生き残り、行哉と結婚すれば、父の野心がいずれ行哉を苦しめてしまう事になるだろう。



(私が、いなくなれば……)



 手術を受けずに自分がいなくなったら、父の野心からは守れるかも知れない。

 自分がいなくなったとしても、また別の婚約者が選ばれるだろう。だが、せめてその人が、行哉が心から愛せる人であればいい。



(私ではダメなんだ。私は……)



 長年一緒にいたから、お互いに家族愛に近い気持ちはあったが、それが恋なのかは分からなかった。

 恋なんてしたことがないから、分からなかった。

 行哉に出会った時『可哀想』という感情を抱いてしまった時点で、それが恋ではなかったと気づいていればよかった。

 恋をする、という気持ちがどんなものか、今日初めて知った。


 今日、帰り道で見た大きな虹を思い出す。

 あの瞬間は、一生忘れられない景色として、脳裏に焼きついた。

 優しくて綺麗な歌声と共に。



「シゲくん」



 重治郎の名前を口にした途端、梅子は胸が苦しくなる。

 病気のそれとは違う、甘やかで切ない痛み。



(どうしよう)



 梅子は思わず両手で顔を覆った。

 ただ名前を呼ぶだけで、愛しさが込み上げる。

 こんな気持ちは初めてだった。



(どうしたらいいの)



 早鐘を打つ鼓動を落ち着ける様に、梅子は深呼吸をして目を閉じた。

 重治郎の歌声が、今もずっと耳の奥で鳴り響いている。

 包み込むような優しい声に胸が震える。

 これが恋なのだと理解したとき、梅子は唐突に分かってしまった。



(ああ、そうか)



 あの時、重治郎の歌を聴いて、行哉は泣いていた。

 傘についた雨粒が掛かっただけだと、行哉は誤魔化した。

 初めて見た行哉の涙だった。


 先日見せた意地悪な笑顔。

 そして今日見せた切なげな涙。


 怒り以外の大切な感情を、行哉がどんどん取り戻していく。凍っていた心を、重治郎の真っ直ぐで温かな優しさが、溶かしていくように。

 檻の中に閉じ込められた様な人生で、自分の心を殺し続けている行哉が、唯一ありのままの自分をさらけ出せる相手。



(ユキくんも、シゲくんが好きなんだね)



 梅子の目からぽろりと涙が溢れる。


 気づいてしまった。

 分かってしまった。


 初めて知る恋の切なさと。

 行哉が心を取り戻していく嬉しさと。

 婚約者同士でありながら、お互い同じ人に、道ならぬ想いを抱いてしまった愚かさと。

 その先に待つ未来と。


 様々な想いがないまぜになって、抱えきれず溢れてくる。



(本当に、どうしよう)



 梅子はベッドの上で、次々と流れてくる涙を止められず、途方に暮れて、目を閉じるしかなかった。


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