第56話 炎上する屋敷の前で
「疲れたところを一網打尽にでもするつもりか?」
オバサンに取り憑いた魔王が徐々に俺たちに近付いてくる。今は最悪のコンディションだ。脱出の時点で十分疲労していた。俺はまだ戦えるが、みんなはそうもいかない。この状態で戦うのは無謀だ。犠牲者が出るのは間違いない。なんとしてでも戦いは避けたかった。
「もう戦うつもりはなくてよ。今回はね。素直に負けを認めてあげるわ。私の策は失敗に終わってしまったのよ。」
意外な展開だ。魔王自身が負けを認めるなんて。なんかこう、もっとガツガツした連中だと思っていたが、そうではないヤツもいたようだ。
「ただあなた達を屠るだけなら容易い事。私はね、力尽くで事を成すのはスマートではないと思っているの。他の下品な魔王達とは違うのよ。私は策で相手を翻弄しないと気が済まない質なの。」
策にばかりこだわるのはそういう理由があったのか。直接戦っただけでも、今までの牛や虎よりも強いのだろう。オバサンの幻影を使っている時でも、それは十分に感じた。避けたり凌ぐ事は出来ても、その奥から感じられる恐ろしい気配がそれを物語っていた。
「そうそう、あなた達に一つ言っておきたい事があるの。私の魔王としての強さは大体、真ん中より少し上といった所よ。つまり、私よりももっと強い魔王がいるの。例えばキングはあなた達人間の間でも有名でしょう?」
キング……ラット・キングのことか! 史上最悪の魔王とか言われてる鼠の王! いずれは戦うことになるんだろうか?
「私に一度勝ったからといって、調子に乗らないことね。私にはまだ何十もの策がある。絶望を味わうのが先送りになったのだとお思いなさい。では、また会いましょう。」
黒い気配がオバサンから抜けていった。抜けていくと同時に、オバサンは力なくその場に倒れ込んだ。近くにいたエルの従姉妹が駆け寄ってそれを支える。
「お母様、しっかり!」
わがままなお嬢様とはいえ、親子だ。魔王に操られる失態を犯したにも関わらず、助けに入っている。母を大切に思っているのは間違いないだろう。
「叔母様!」
エルもさすがに心配になったのか、オバサンと従姉妹の元へと駆け寄った。しかし、従姉妹はそれを制止するかのように、エルを睨み付ける。その目には憎しみが籠もっている。
「近寄らないで! アンタのせいでこんなひどい目にあったのよ! みんなメチャクチャになった! お母様も、家も、ラヴァン様も! 一体どうしてくれるのよ!」
「……ヘイゼル……。」
従姉妹ヘイゼルはエルにありったけの怒りをぶつけていた。エルは何も悪くない。言ってる本人の母親が魔王に利用され引き起こされた事件だ。怒りの矛先を向ける相手が間違っている。彼女自身も被害者なのは間違いないが、エルに責任を求めるのは間違っている。
「アンタは昔から嫌いだった! 私よりも魔術の才能もない癖に、年上だからってお姉さんぶって! しかも、何? 下僕を引き連れてやってきたと思ったら、全部メチャクチャにした! お母様の恩を忘れたの? 忌み子だというのに家においてあげたっていうのに、恩を仇で返すなんて最低よ!」
俺ら、あのお嬢様からしたら下僕なんか……。ヒドいな。いやいや、俺らのことはどうでもいい。エルのことをヒドく言い過ぎだ。お前、その分、散々エルのこと虐めてきたんだろうが! 俺の中で怒りがどんどん大きくなりつつあった。
「アンタ、自分のこと、悲劇のヒロインとか思ってるんじゃない? そんな自分に酔っちゃってる! 所詮、自分が可愛いのよ! 自分をわざと不幸なポジションに置いて楽しんでるんじゃないの!」
そこまで聞いて、俺の中で何かが切れるような感触がした。体は自然に動いていた。ヘイゼルのところまで一直線に向かった。彼女が支えているおばさんを突き飛ばし、左手で彼女の胸ぐらを掴み、右手を振り上げる。ヘイゼルの顔は恐怖で引きつっている。そんなのは構わず、右拳を顔面に向かって叩きつける。エルが味わった屈辱を何倍にでもして、返してやる!
「ダメ!」
俺の拳は別の人物に命中していた。それは……エルだった。腕を振り上げたのを見て、俺とヘイゼルの間に割って入ったみたいだ。彼女を傷付けたヘイゼルを懲らしめようとしたつもりが、結果、エルを傷付けることになってしまった。俺はなんてことをしてしまったんだ……。
「ご、ごめん、俺……。」
予期せぬ出来事に俺は激しく動揺した。本来守るべき人を傷付ける罪を犯してしまった。予期していなかったとはいえ、そうしたことには変わりない。
「いいの、あなたは気にしなくていい。女の子を傷付ける罪を背負ってほしくなかったから……。」
エルはヘイゼルを庇う目的で割って入ったようだ。平然と彼女自身を罵り侮辱した相手を、だ。俺でさえ怒りが収まらなかった相手に情けをかけた。ハッキリ言って想定外の行動だった。俺もまだ、彼女への理解が足りていないことを実感した。自分の不理解が引き起こした過ちだといえる。そう思うと自分が情けなくなった。
「何よ、アンタ! 私に恩でも売るつもり? だったら筋違いよ! 償いたかったら、今すぐここで死になさい!」
従姉妹とはいえ姉同然のエルになんてことを言うんだ! 恨みがあるとはいえ、いくら何でも言いすぎだ。ますます許せなくなったが、怒りを収めることに俺は尽力した。再び失態を犯してしまわないように。
「……ええ、死ぬわ。……エレオノーラ・グランデはここで死にます。」
「何を言い出すんだ、エル! バカなことを言うな!」
「違うの。あくまでグランデ家の私はここで今、死にます。……これからはただのエレオノーラとして生きてゆきます。今日以降はグランデ家には一切関わりません。近寄らないことを誓います!」
「エレオノーラ! 諦めてはいけない! 私が必ず復権させてみせる!」
エルの突然の宣言にラヴァンまで声を上げた。彼女が家名を捨てる決断に納得がいかない様子だ。死ぬと言いだしたときははらはらしたが、俺は彼女の意見を尊重することにした。
「もういいんです。これが私なりのけじめなんです。やっぱり私が関わると碌なことになりませんから。」
エルはヘイゼルやラヴァンに背を向け歩き出した。俺に一緒に付いてくるようにも促した。俺は黙ってそれに従う。
「何よ! 逃げるつもり? アンタなんか、いつか本当に殺してやる! どこまでも追いかけて、地獄に落としてやるんだから!」
去り際の俺たちへ追い打ちをかけるように、ヘイゼルは恨み言を言う。その言葉を聞いて、エルは振り返った。
「構わないわ。いつ来てもいいよ。あなたの気の済むようにしたらいい。でも、私ではなく、ロアや私の友達に危害を加えたら、ただでは済まさない。それだけは肝に銘じておいて。」
エルはキッと殺気のこもった目でヘイゼルを睨み付けた。本気だ。ここまで本気の目は大武会で宗家と戦ったときしか見たことがない。彼女は大切な人のためなら、心を鬼にする。それだけ愛情が強いということの裏返しなのだろう。
「知るもんか! アンタなんか死んじゃえ! 死んじゃえばいいんだ!!」
ヘイゼルは全く懲りていない。いつまでもエルに恨み言を言う。……でも、少し声が震えているような気がする。もしかしたら、精一杯の虚勢を張っているのかもしれない。だとしたら、憐れだ。そうすることしか出来ないのだろう。やりきれない思いで一杯だが、俺たちは炎上する屋敷を後にした。




