「揺篭」(3)
季節は真夏をむかえ……
赤務市のあちこちでは、セミが鼓膜をつんざくべく鳴いている。
街を行きかう市民たちも、あまりの暑さに表情はうつろだ。あたりの外壁や道路はヒートアイランド現象に限界まで乾き、車の渋滞から漏れる騒音はなお絶望を誘う。
あらゆる排気ガスや廃棄物の悪臭と、フル稼働する工場等の煤塵にくすんだ大気。温暖化をまぎらわそうと必死なお飾りの緑に、廃油やゴミで汚れた海。枯れ果てていく自然の森や珊瑚礁。報道の絶えぬ他国の戦争に、細かい権利を訴えるデモの行軍と暴力。数えきれない生命を日々さいなむ大小の病。
ちかごろ盛んに叫ばれる環境破壊の影響は、着実に一般生活をも蝕みつつある。
熱気にゆがむ街路をふらふら歩くのは、このふたりだった。
肩に通学カバンを引っかけた江藤詩鶴と、同じく制服姿の飛井譲二だ。
落ち着きなく顔をうちわであおぎつつ、シヅルはどこか憤然と先頭を歩いている。かんかん照りの直射日光に、さすがに命の危機を感じているらしい。それに怯えるように、ジョージはシヅルの影をついてきていた。どう見ても、気の強い姉と脆弱な弟の構図だ。
なので知る者はいない。じつはこの二人が彼氏彼女の関係であることを。
「た、タイム……」
ついにジョージは、電信柱の日陰で立ち止まった。身を折ってそばの手すりに寄りかかりつつ、年上の彼女を制止する。
「ちょ、ちょっと待って、シヅル……」
「あァ?」
口調も顔つきもガラ悪く、シヅルは聞き返した。心底いらだたしげに、額の汗をハンカチで拭いている。
「なんや、どないした? はよショッピングモールでクーラーにあたろうや」
「スタミナ切れだ……意識が飛びそう。すこし休憩させてよ」
「ほんま、あんたはひ弱やなあ」
ため息混じりに、シヅルは大胆な行動にでた。鼻先に風を送っていたうちわで、こんどは無造作にじぶんのスカートの中をあおいだのだ。一瞬だけ捲くれ上がったそこから、ジョージはあわてて視線をそらしている。
「な、なにしてんの!? 人がいっぱい歩いてるんだよ!?」
「べつにかまへん。スカートもスカートで暑いんや。ズボンのあんたは平気なんけ?」
「ぼくはもともと冷え性でね……だからこんな、急激な気温の上昇には滅法弱いんだ」
「しゃあないな。ちょっと待っとき」
あたりを見回すと、発見したものへシヅルはずかずかと歩み寄った。飲料の自動販売機だ。百円硬貨を二枚ばかり投入する。買って戻ってきた冷たいスポーツドリンクを、シヅルは乱暴にジョージへ投げ渡した。
じんわり手にしみこむ冷気に、ジョージは感動した。
「あ、ありがとう。優しいじゃないか」
ペットボトルのフタを勢いよく開けながら、シヅルは言い放った。
「まいどおおきに。三百円や」
「は?」
ジョージの顔も冷たくなった。腰に手をあてて飲み物を嚥下するシヅルと、あちらの自販機を交互に見比べる。
「百円均一だよね、あの自販機?」
「あほか」
おっさんのように吐息をついて、シヅルは唇をぬぐった。
「うちがじきじきに買いに行ったんやで。輸送費と人件費、出張費と雑費でしめて四百円に負けといたるわ」
「ね、値上がっていく……」
「あは、うそやって」
シヅルの浮かべた笑顔は、それこそ真夏の太陽のようだった。道路の手すりに背中をあずけるジョージのとなりへ、白い太ももが見えるのも気にせず跳んで腰掛ける。
「無料に決まっとるやろ」
「え?」
交差点に歌う信号機の注意音に毒され、ジョージは耳がおかしくなったのかと思った。
「無料? 無料って言ったのかい、あざといきみが? 幻聴か? ほんとにいいの?」
「ええ」
「て、天変地異の前触れかな?」
ひとまず安心した面持ちで、ジョージはスポーツドリンクをちびちび飲み始めた。その横で暇そうに足をぶらつかせつつ、ぽつりとつぶやいたのはシヅルだ。
「そのかわり、あとでおごってな」
「?」
「ムーンセントカフェのフラペチーノ」
「もちろんさ……って」
ドリンクを噴き出しかけながら、ジョージはまた熱中症の眼差しに戻った。
「あそこのフラペチーノ、六百円もするじゃないか。うわべの心遣いに、ついだまされてしまった」
「了解したもんな? しっかり聞いたで?」
「ほんと商売上手だね、きみは」
「嫌やったらええねんで。ジュース返して」
「いや、もう開けて飲んじゃったけど」
「中身はまだ、あんたの胃の中にある」
シヅルは両手で拳の骨を鳴らした。
「これからぜんぶ吐き戻してもらうんや。その薄っぺらい腹にボディブローをくらわせて」
腰だめに腕をかまえたシヅルを、ジョージは急いで手でさえぎった。自慢の彼女は護身用に格闘術を習っていて、その腕っぷしはかなり強い。
「おごる! おごるから許して!」
「ケーキもついてくるねんな?」
「つく! つくから暴力だけはやめて!」
「それでええ」
しょんぼりした雰囲気で、ジョージは財布の中身を確かめた。
「これで合計千円の出費か……もとは百円だったのに、あっという間に十倍にまで暴騰した。どこの発展途上国の価値観だよ。あのさシヅル。お小遣いの少ないぼくなんかからカツアゲして、なにが楽しいの?」
「うちは楽しいで。あんたとこうしてデートしてるだけで。モヤシそのもののあんたみたいなんと」
「なんか一言多いな」
制服の胸元をあおぐシヅルの下着から、またジョージは目をそらした。肩を落としたまま、うらめしげに愚痴る。
「だいたいにしてきみ、家はお金持ちだろ?」
うちわの柄で、シヅルは悩ましげに頭をかいた。
「お父んとお母んとはな、いま絶賛、絶交中なんや」
「ぜ、絶交? 会ったり話したりしてないの?」
「口を開けば両親は〝この親不孝者〟〝不良娘〟〝縁を切る〟の繰り返しや。壊れたレコーダーなんかと喋ってられるかい。やから、ろくな小遣いもあらへん」
「まさか、家にも帰ってないとか?」
「いやいややけど、帰るには帰っとる。前にも見せたとおり、家はムダに広うて部屋が多い。じぶんの部屋に風呂もトイレも洗濯機も、家政婦さんが自動で補充してくれる冷蔵庫もあるしな。いっぺん部屋に入って鍵かけてもうたら、学校に行くまでだれと喋ることもあらへん」
頬杖をついて車の行き来をながめるシヅルの横顔は、めずらしく落ち込んでいた。
「はあ……家に帰りたない」
「いけないよ。ご両親の言い分と、きみの本音を言ってごらん。ぼくがなんとか、お互いが平和に妥協できる着地点を提案してみる」
「あんたは優しいな。そして偉い、賢い。でもやで。品行方正なあんたがわざわざ、他人の家庭の問題に首を突っ込む必要はあらへん」
「そうもいかない。ぼくにとってきみはもう、他人や友達じゃないそれ以上の存在だ。まともな人間には、いや生き物には帰る場所があって当然だと思う。せっかくあるそれを捨て去るなんて、生きるのをやめるのと同じさ。それは越えちゃならない一線だよ」
「一線……」
にわかにシヅルの流し目は、色っぽい輝きを秘めた。
「越えてまうか、一線を。ジョージ、今晩、家に泊めてくれへん?」
「ぼ、ぼくの……?」
固唾を飲んだあと、ジョージは自己を律して強く首を振った。
「だめ、だめだめ! 不純異性交遊だ!」
「不純もなにも付き合っとるやん、うちら。それに、友達以上って言ったんはあんたやで? それとも……」
ちょっぴり淋しげに、シヅルは瞳を伏せた。
「うちに魅力はあらへんの?」
「そうじゃなくて! あ~、もう!」
身振り手振りで説得を試みるジョージだが、うまく伝わらない。頭を抱えて、ジョージは嘆いた。
「魅力うんぬんの話は後回しだ! こんな会話をもし、風紀に厳しい倉糸先生にでも聞かれたら大変だぞ!」
「バレたらそのときは、な?」
おもむろに立てられたシヅルの指先は、不思議な輝きを放った。
おお。なにもない空中から突如、そこに現れたのは細長く尖った五寸釘のような凶器ではないか。にも関わらず、ジョージにいまさら驚く様子はない。
ジョージはとっくに知っている。だれともなく〝呪力〟と呼ぶ未知の異才が、眼前のシヅルに隠されていることを。虚無から現実へ〝急所を狙う専用の武器を引き出す〟のは能力のほんの一端にしかすぎない。
あっけにとられて、ジョージはお手上げした。
「先生の〝運命を断つ〟つもりかい? だめだってば。約束したじゃん……魔法少女の力は、むやみやたらと日常の場では使わないと」
「冗談やって」
鋭い長針をつまむ手を、シヅルは素早くひるがえした。ふたたび開かれた掌からは、おそろしい暗器の姿は手品のように消えている。
「お、スポーツドリンクが効いてきたみたいやな」
うだるような夏の熱風から前髪を守りつつ、シヅルはジョージを上目遣いにした。
「さっきと比べて、ずいぶん顔色がようなったで」
「おかげさまで、ね。ぼくは心に誓ったんだ。きみが暴走する前に、すみやかにモールのカフェへたどり着くと」
「建設的や。はじめて会うたときのあの虐められっ子が、ほんま男らしゅうなったわ」
「大きなお世話だ。さ、行こう」
「そうしよ。せやから、うちはあんたのことが……」
近づきすぎず、しかし離れすぎもせず、鴛鴦たちは揺れながら炎天下の旅を再開した。