「棺桶」(7)
にわかに雲行きの怪しくなった空は、リゾート地の燦光をかげらせつつある。
潮騒にまぎれて聞こえないほどの忍び声で、ルリエは仲間ふたりへ警告した。
「逃げて。いますぐに。あいつが本気を隠してるうちに」
「あれが噂のホーリーやな」
雷光をほのめかせる曇天の下、つぶやいたのはシヅルだった。
「ルリエひとりで止められる相手なんけ?」
「さてね。ろくに時間稼ぎもできるかどうか」
土気色の表情のルリエに、ホシカは提案した。
「あたしらも戦うぜ、いっしょに」
「どっちも呪力の残量がほぼゼロなのに? 遠慮するわ。足手まといよ。おしゃべりしてるこの時間も無駄ね。呪力と気配を押し殺して、さっさとこの場から離れなさい」
ふたりの背中を叩いて後方に押すと、ルリエはひとりホーリーへ歩いていってしまった。
お互い目配せして、うなずき合ったのはシヅルとホシカだ。
「とりあえずルリエの言う通りにするけ?」
「そうだな、しゃあねえ。物陰から成り行きを見守るとしよう」
白砂に点々と足跡を残して、ルリエはホーリーの眼前に立ち止まった。
「お久しぶりね、ホーリー」
「…………」
自然に立ち尽くしたまま、ホーリーはじっとルリエを見据えている。
「あの強い呪力に呼ばれてきたんですってね。でもちょっと遅かったわ」
手もとの〝断罪の書〟の表面をこんこん叩き、ルリエは説明した。
「その反応はこいつ、ダムナトスよ。この場に、あなたに敵意を抱く者はいない」
「…………」
「このまま全員、平和に解散ということでいいかしら?」
砂辺は爆発した。
素早く顔を掴んだルリエを、ホーリーが力任せに地面へ叩きつけたのだ。激しい衝撃は肺の空気をすべて絞り出し、ルリエはえび反りになって苦悶した。きりきり宙に躍った呪いの辞典は、ホーリーの手がすかさず受け止めている。
おそろしい暴力を振るいつつも、ホーリーは無邪気な笑顔でささやいた。
「ぜ~んぜん質問に答えてくれないんだね。わたしは聞いたんだ。だれが最初に死にたいのかって。じゃあ決めた。きみから順番にだよ、ルリエ」
「……!」
頭上にもたげた〝断罪の書〟を、ホーリーは勢いよく振り下ろした。ルリエの胸に突き刺さった辞書は、とたんに不可解な閃光を放っている。
ああ。本の呪力に影響され、ルリエは無数の紙片と化したではないか。ホーリーが開いた魔導書に、たちまち犠牲者の姿は吸い込まれて消えた。新たにルリエが加わった文章の題名を、興味深げに読み上げたのはホーリーだ。
「ページ〝ルルイエ異本〟……なるほど。相手を本に封印する条件は、獲物を瀕死に追い込むことか。これはいい呪力がとれた。うまく使いこなせそうだよ、ダムナトス」
「ルリエ!」
怒鳴って砂地を蹴立てたのはホシカだった。一角だけ残った魔法少女の五芒星をすんでまで消費し、常人離れしたスピードでホーリーに殴りかかる。
ぱたんと奇書を閉じ、ホーリーは呪文をつむいだ。
「〝超時間の影〟……三倍」
宣言どおり、ホーリーの腕は三倍速で走った。標的の拳より早く、ぶ厚い辞典はホシカの頬桁を横殴りに張り飛ばしている。きりもみ回転して砂浜を跳ねたホシカの肩に、ホーリーはまた〝断罪の書〟の角を振り落とした。
「ちくしょう!」
「ホシカ!」
ホシカの悪態に、悲鳴で続いたのはシヅルだった。
なすすべもない。紙片に変じて爆散するや、ホシカさえもが本の世界に閉じ込められてしまっている。自動的に書き下ろされた紙面を、ホーリーは無表情に読んだ。
「このページは〝イステの書〟か」
「もとに戻さんかい、ふたりを!」
怒気を放って、シヅルは助走した。俊敏な飛び蹴りが、ホーリーを襲う。
「〝超時間の影〟……二倍よ」
斬撃音とともに、シヅルとホーリーは背中合わせに静止した。
辞書を振り抜いたホーリーの背後、糸が切れたように膝をついたのはシヅルだ。魔導書の四隅に薙ぎ払われた制服の腹部は無残に裂け、負傷の呪力をこぼしている。
息も絶え絶えに、シヅルはホーリーに吐き捨てた。
「いまに、見とれよ、ホーリー。おんどれは、絶対に許さ……」
みなまで言わせず、シヅルは紙吹雪になって波打ち際を舞っている。
呪力使いたちは手負いだったとはいえ、ホーリーはそれを一人きりでまたたく間に殲滅してのけた。強さが、格が、次元が違いすぎる。
シヅルが追加された呪本の一部を、ホーリーは口ずさんだ。
「ページ〝エルトダウン断章〟……これで三人ぶん溜まった。第一の浄化の準備は整ったわ」
敵手どもを吸収し終えた〝断罪の書〟を、ホーリーは天高くかかげた。辞典を中心にして彼女から膨れ上がったのは、未知なる呪力の輝きだ。それを横目にするのも、もはや海ぞいを歩くヤドカリのつがいしかいない。
来楽島から曇り空へ、まばゆい光の奔流は突き抜けた。




