「棺桶」(6)
プールサイドに這い上がった人間姿のルリエは、不審な気配に眉をひそめた。
ため池の中央で、盛大な水しぶきがあがったのだ。こんどは没する音ではない。なにかが飛び出したそれである。
水面から跳躍した人影は、反対側のプールサイドに片膝をついて降り立った。その流麗な漆黒の衣装は、見覚えのある魔法少女のものだ。
お互い濡れそぼったまま、言葉を発したのはルリエだった。
「シヅル……」
「…………」
なぜかシヅルは無言で、五芒星を秘めた片目を隠している。
「く、くく……」
「!?」
音をたててシヅルの唇がゆがむのを見て、ルリエは驚愕した。これまでのシヅルからはとても考えられないような、どす黒い笑みだったからだ。シヅルらしきものを睨みつけながら、ルリエは問うた。
「あんただれ? それにその呪力……知ってる気がする」
「勘が鋭いな、久灯瑠璃絵」
きっぱり答えたのは、シヅルの声だった。たしかにシヅルの声に間違いない。ただその口調は、以前の彼女とはずいぶん違う。いまだ片目をかばったままのシヅルへ、ルリエはある嫌な予感を舌に載せた。
「まさか……まさかあんたは、ダムナトス?」
「正解だ」
肯定するとともに、シヅル……いやシヅルに憑依したダムナトスは、瞳を覆う手をどけた。ああ。いまや片目の五芒星はふたたび全角が揃い、かつてない強烈な呪力の輝きを放っている。
「計画は成功だ」
とめどなく片目に呪力の業火を燃やしつつ、ダムナトスは語った。
「これまでに収穫したシャードの呪力は、すべて江藤詩鶴の体へ投入した。その小道具ももう必要ない。時間切れのない完全無欠の魔法少女は出来上がったのだ。本来であれば伊捨星歌がこの役割を担うはずだったが、現在のこれも俺の器としては悪くないぞ」
厳しい眼差しで、ルリエは聞いた。
「シヅルに乗り移ったりして、またなにを仕出かすつもり?」
不敵に鼻を鳴らし、ダムナトスは言い放った。
「ホーリーを倒しにいく」
「そんな!? 無茶よ!」
「いまの俺に不可能はない。もとの所有者には申し訳ないが、この身が燃え尽きるまで戦うぞ。たとえ負傷し、手足がもげようとも。脳や内臓が欠けようとも。ぐしゃぐしゃに骨折したとて戦い続ける。俺の魂が残るかぎりは」
「させない……シヅルはあたしが助ける!」
怒鳴るが早いか、ルリエは旋回した。制服のあちこちから飛び出した尖った触手は、瞬時にプールの距離を越えて狂戦士を捕らえる。
破裂音がこだました。目視にたえない高速で奔った触手を、ダムナトスはいともあっさり受け止めてしまっている。触手の束を握りしめたまま、ダムナトスは独りごちた。
「ふむ、なかなかの反応速度だ。では、力のほうはどうかな?」
刹那、ルリエの視界は流れた。
浮世離れした怪力で、ダムナトスが触手ごとルリエを振り回したのだ。その勢いは、並の魔法少女の範疇をとっくに外れている。
猛然と引き寄せたルリエを、間髪入れずに襲ったのはダムナトスの回し蹴りだ。残像すら描いて撃墜されたルリエの体は、石切りのごとく何度も水面を跳ね、道中の支柱を破壊しつつ、直線上の壁にめり込んでようやく止まった。ただのキックが、なんという威力だろう。
「ぁぐッ……!」
大理石の破片をひいて、ルリエは藁人形のように床へ転がった。人外の打たれ強さを誇るはずの彼女が、意識をもうろうとさせている。シヅルにダムナトス、おまけにすべてのシャードの呪力まで加わっているのだから手に負えない。
それでも震える視線で見返してくるルリエに、ダムナトスは別れの仕草をみせた。
「大量の呪力をこめた蹴りだ。その有様では、とうぶん抵抗はできまい。じゃあな」
「ま、待ちなさ……」
這いずるルリエの制止もむなしく、ダムナトスは宙返りして変形した。
そう、変形したのだ。ダムナトスの周囲で黒い〝死〟の風が具現化するや、あっという間にその体を包み込む。現れた流線型の機首に、鋭く展開した広い両翼……飛行機だ。漆黒の戦闘機に他ならない。
さらには機体のそこかしこに、音をたてて気味悪いものが瞬きした。血走ってぎょろつくのは、おびただしい数の眼球ではないか。その変貌ぶりはすでに、憑依した〝蜘蛛の騎士〟自身にすら想像がつかない。
目玉だらけの黒い生体戦闘機は、エンジンに邪悪な呪力を充填した。
天井のガラスを突き破り、青空に挑んだスピードは音速を超えている。あたりの空間に満ちる惑星の生命をまとめて〝殺す〟反動を推進剤として飛行したのだ。誤って触れでもしたら即死に見舞われるという点は、ある意味では現実のロケット燃料と変わらない。
ダムナトスにシヅルがさらわれた場所で、ルリエはまだ動いていた。再生も間に合わない重い体を懸命に匍匐し、ほうほうのていでプールへ向かう。
さみしげに水辺を漂う小さな物体は、さっきまでダムナトスが所持していたものだ。手探りでそれを掴むと、ルリエは装置のボタンを押した。
「頼んだわよ……シヅルを」
祈ったルリエの耳に、どこかでなにかの開く音が届いた。
一方、はるか上空のダムナトスは……
たえまなく死を連れて飛行しながら、目玉の戦闘機はシヅルの声でつぶやいた。
「感じる、感じるぞ。ホーリーの呪力だ。やつもこちらの存在に気づいたな。首を洗って待っていろよ」
「待つのはてめえのほうだ、ダムナトス」
「!?」
この高度で、いったい何者がダムナトスに追いついたのだろう。かんだかい激突とともに、黒い機体に散ったのははでな火花だ。高速でサイドロールした視界の中、美しい砂浜が三百六十度回転する。
見よ。超音速でダムナトスに肉薄するのは、反対色の真っ白な戦闘機ではないか。あらゆる箇所でその機体は、呪力で形成された光の翼をひいている。
ダムナトスの鍵を使い、ルリエが地下牢から解き放ったそれは……
その魔法少女の名前を、ダムナトスは慄然と呼んだ。
「〝翼ある貴婦人〟……伊捨星歌!」
「無限の呪力だかなんだか知らねえが……」
黒い軌跡を、白い軌跡は追い抜いた。この驚異的な加速力、〝蜘蛛の騎士〟より疾い。
「飛行の経験なら、あたしのほうが上だ!」
「黙れ! 墜ちろ!」
ダムナトスの眼球という眼球から、幾筋ものおぞましい光条が撃ち出された。放たれた弾幕は、すべて死の魔針でできている。機関銃さながらに斉射される呪われた火線は、先頭のホシカをその毒牙にとらえた。
「甘え!」
対するホシカからも、複数の輝きが分離した。灼熱の光刃を帯びた自律攻撃機だ。呪力の金属片たちは、ホシカの尾翼付近で規律正しい陣形に位置を変更。とたんに生じた閃光の投網は、障壁と化して魔針の雨を防ぐ。矢継ぎ早に包囲したダムナトスを、こんどはドローンの光刃が衛星のごとく周回して切り裂いた。
「ぬうッ!?」
機体から鮮血をしぶかせつつ、ダムナトスはうめいた。痛い。激痛だ。本書の時代は自由自在に遮断できた痛覚を、シヅルの肉体はいま遠慮なく訴えている。呪術の完成形と思われた魔法少女の獲得にはその実、単純な落とし穴が仕掛けられていた。不慣れな痛みの連続にさいなまれ、ダムナトスは目から辞書ごと飛び出しそうになる。比喩ではなく、本当にだ。
螺旋状に鍔迫り合って上へ上へと競争する白色と黒色は、じきに雲を貫通して太陽を反射した。気づいたときには、戦闘機たちは真下へ曲線を描いている。
猛スピードで落下の風を切りながら、ダムナトスの喉首を掴むのはホシカの手だ。瞬間的にホシカは変形を解除し、馬乗りになった勢いでダムナトスをも人型へ戻した。獲物を手放さないばかりか、ホシカはさらに全身のロケットブースターを加速させている。
下へ、下へ、下へ。海が、森が、砂浜が、みるみる迫って拡大していく。
絡まり合って流星のごとく落下しながら、ホシカは雄叫びをあげた。
「シヅルからァ! 出ていけェッ!」
「放せ! 放さんかアぁァぁァぁ!」
轟音……
舞い上がった大量の土砂は、もうもうと周辺の視界を閉ざした。
やがて砂煙が晴れたとき、陥没穴の中央に倒れていたのは白黒の魔法少女たちだ。ついにシヅルの片目から吐き出された特徴的な魔書は、すぐそばに転がって人でいう〝もんどり打って痙攣〟している。
寄せては引く波音と、海鳥の歌声だけが静けさを飾った。
さきに瞳をしばたかせたホシカの五芒星は、もはや一角を残すのみだ。危険な水域まで呪力を動員した甲斐あって、彼女は危うい戦いに終止符を打った。そのドレスといい素肌といい、ぼろぼろの満身創痍なのはホシカもシヅルも変わらない。
どん、と波打ち際を揺らした足踏みに、そのシヅルも目を覚ました。こちらの五芒星にはかすかな亀裂さえ走り、およそ一角にも満たない。
ふたりの視線の先、ダムナトスだった本を片足で踏みつけにして止めを刺すのは、これも負傷したルリエだ。二色の魔法少女が変身を解き、それぞれ美須賀大付属の制服に戻るのを確認してささやく。
「よく生きて帰ったわね、あなたたち。いったいなにを食べれば、女子高生がジェット機なんかに変形してドッグファイトできるわけ?」
ぼうっと頬に指をあて、シヅルは最後に口にしたものを思い返した。
「漬物、やな」
「食い物、か」
ぐう、とお腹を鳴らして続いたのはホシカだった。
「あたしゃ、呪力の使いすぎで腹が減ったよ。なんかどっかに食い物はねえか?」
「同感や。ダムナトスの屋敷になら、冷蔵庫ぐらいあるやろ。緊急事態やし、悪人の家やもんな。ちょっとばかし食料を分けてもらっても怒られへんはずや……いや、シャードの連中が黙ってへんか?」
「それなら解決済みよ」
答えたルリエは、豪邸の方角を親指で示してみせた。
「最後のシャード、命重装の首飾りも無事に回収したわ。集めたシャードは、そっくりそのままメネスへ送った。もうシャードの使い手は近くにいないし、増えもしない」
「おおきに、みんな。これで街にも少し平和が戻った。あと、暴れて堪忍な」
反省した面持ちでつぶやき、シヅルは立ち上がった。かたわらのホシカへ手を差し伸べる。その手を力強く握り返し、ホシカは首を振った。
「操られてたんだ、仕方がねえ。あたしも檻から助けてもらったし、お互いさまさ。来てくれてありがとう、ふたりとも。とっとと帰ろうぜ」
拾い上げた〝断罪の書〟から砂埃を払いつつ、ルリエはたずねた。
「あなたたちはいいわよね、飛行機になって赤務市までひとっ飛びだし。じゃああたしはどうやって帰れば?」
シヅルとホシカは、いたずらっぽい眼差しになってあちこちを眺めた。
「ルリエは得意やもんな、泳ぐの?」
「運ぼうか? 軽けりゃな、体重が」
「あんたたち~」
傷だらけの女子高生たちは笑い、怒り……
四つめの足音が、離れた砂浜を踏んだのはそのときだった。
そのわずかな気配に、最初に気づいたのルリエだ。遠くにたたずむ人影を、シヅルとホシカの肩越しに目撃して一瞬で死相を浮かべる。
「?」
ワンテンポ遅れて、シヅルとホシカも振り返った。
潮風に髪を遊ばせるのは、不吉な未来のスーツに細身を包んだ少女だ。限界まで枯れた喉笛を、ルリエはその恐るべき来訪者の名で震わせた。
「ホーリー……!」
「とんでもなく強い呪力に招かれてね。さあ、あの気の持ち主は、いったいだれ?」
拳と首の骨を大きく鳴らし、ホーリーは凶暴に瞳を輝かせた。
「さあ、だれから先に殺られたい?」




