「到着」(3)
きめ細かい貝殻の粒でできた真っ白な砂浜……
来楽島だ。
海から波打ち際に歩いて登ってきたのは、ずぶ濡れのルリエだった。
「幸運だったわね……あたしが泳ぎ上手で」
おぼれたシヅルを陸に寝かせ、ルリエはついでに引っ張ってきたもう一名も海辺に転がした。失神したシアエガではないか。とうぶんは眠ったままだろうが、目を覚ましたら貴重な情報源になる。
ルリエが懐から取り出したのは、掌大のアクセサリーケースだ。その表面には幾何学的な呪力の魔法陣が描かれている。
これこそは〝現実から異世界へ転移する〟仕組みの組み込まれた配達箱だった。いくつかの所定のシャードを回収し、これに収めて発送するのもルリエに与えられた依頼のひとつである。
シアエガの手から慎重に引き抜いた指輪状のシャードを、ルリエは小箱にしまった。これでひとまず、第一の危機は去ったはずだ。
倒れ伏したシヅルの肩を、ルリエは揺すった。
「シヅル、シヅル……いけない。息をしてないわ」
シヅルの胸に重ねた両手を、ルリエは心肺蘇生の要領で強めに押した。押す、押す、押す。だが、シヅルに呼吸が戻る気配はいっこうにない。
覚悟を決めた面持ちで、ルリエは独りごちた。
「しょうがない。光栄に思って。偉大なる深海神の口づけを受けられる機会を」
シヅルの顔を、ルリエのそれが覆って影を生んだ。
千里眼……キム・ギョングの場合は。
幼いころからの憧れで、彼は一流の料理人を目指した。じぶんの作る味で皆を幸せにしたい。将来的には小ぢんまりでもいいので、ちょっとおしゃれで美味しい個人店を経営するのが夢だ。
もともと家庭は貧乏だったため、親の援助は期待できない。むしろじぶんが大成し、家に給料を入れて養うつもりでいる。
アルバイトで苦労して稼いだ費用で、調理師学校を上位の成績で卒業した。先生の勧めもあり、そのまま有名チェーン店の料亭で修行を積むことになる。
料亭の仕事は厳しい。最底辺の掃除係から始めて、皿洗いに荷物運び等の雑用。まともに調理場に立つまでには、五年もの歳月を要した。
ギョングを震撼が襲ったのは、ある夜更けのことだ。
冷蔵庫内を丁寧に検品し、期限切れの食材を廃棄しようとしたところ、ギョングはいきなり料理長に怒鳴りつけられることになった。エコと仕入れ代を考えろという。ちょっとやそっと腐っていても、食害につながる要素さえなければいい。体面だけきちんと整えて提供すれば、馬鹿な客はなにも気づかないとも諭された。
つまりは食品偽装だ。
調べるにつれて、ギョングは次から次へと現実を思い知らされることになった。それなりに名の通った当店ばかりか、その系列店舗のほとんどが慢性的に期限切れの使い回しに手を染めているではないか。期待を抱いて訪れるお客のことなどなにも考えていない。料亭の頭にあるのは、目先の利益と節約だけだ。
頭が真っ白になって絶望し、ギョングは証拠をもって保健所に駆け込むことになった。
実家が放火に遭って全焼したのは、その直後のことである。逃げ遅れた家族は、ひとり残らず落命した。唐突にギョングは、天涯孤独の身になってしまう。
ギョングの行いはたしかに正義だったが、その考えは甘かった。保健所は裏で例の料亭とつながりを持ち、多額の賄賂を受け取っていたのだ。そのため、ギョングの密告は即座に料亭の耳に入っている。
放火魔が料亭の差し金だったのはほぼ間違いない。たまたま外出していたギョングは難を逃れたが、それ以来、断罪者の執拗な追跡を受けることになる。
警察に相談するにもしたが、なにせ相手は正体不明だ。ここでも料亭の汚職を暴露するも、管轄外だと蹴られて取り合ってもらえない。きっと報道各社に知らせても同じだ。裏金を握らされており、逆にギョングの居場所が特定されてしまいかねない。
味方はいなかった。だれも信用できない。家族も失った。逃げ続けるうちに、あるかなきかの貯金も底をつく。
野良犬同然の逃亡生活を送るうち、ついに恐れていた事態はおとずれた。
殺し屋たちの凶器をかわし損ねて、手足はズタズタになる。血痕を残して逃げ込んだ人気のない路地裏で、迫るのは複数の死神の足音だ。満身創痍でへたり込むギョングにはもはや、あたりの傭兵どもに反撃する体力も残っていない。
はかなく薄れる意識の中、ギョングはとうとう運命を受け入れた。
死のう。
鋭い響きは、ギョングが処刑される音……ではなかった。
気づけば殺し屋どもはそろって急所を断たれ、血溜まりに倒れ伏している。壁にもたれかかったギョングの頭上、ひとりでにめくれるのは一冊の辞書だ。その人影が開いた本へと舞い戻っていく極薄のページたちが、追跡する連中を刃のように斬ったことをギョングは知るよしもない。
眼下のギョングへ、謎めいた青年は無表情に告げた。
「これが魔法少女の力だ」
「あ、あなたは……?」
「ダムナトス。おまえのように実りきった絶望の果実を収穫している」
そう名乗った青年は、ぱたんと辞書を閉じた。
「キム・ギョング。おまえは内に秘めている。特別製のシャードを使いこなす才能を。裏社会を制する力、欲しくはないか?」
偏向皮……神野明香里の場合は。
大学時代に巡り逢った夫と、アカリはめでたく結婚することになった。
順当に行った挙式でも、ふたりの今後の幸福を疑う余地はない。新婚旅行先のリゾート地では、ともにワイングラスを透かして見た夕陽が同じ世界とは思えないほど輝いて見えた。
明朗快活な性格のアカリに、夫は知的で理解が深い。夫はすでにその手腕と人徳から企業の要職にまで昇りつめ、アカリと暮らす家もローン払いとはいえ快適な一軒家だ。
粋を凝らして夕食を作るアカリにとっては、残業で夫の帰りが遅いことすらもが誇りだった。夫の時間はそれだけ、大勢の人の役に立っているのだ。アカリの体には、まもなく安定期をむかえる新たな命も宿っている。
だれもが羨む幸せな新婚生活……あっけなく、それは終わりを告げた。
奇病だ。不可解な病が、夫に発症したのである。
夫は変わり果てた姿で、ある日、赤務市の美樽山のふもとで警察に〝捕獲〟された。
発見された当初、夫は視界に映る動物を片っ端から襲っては食い漁っていたという。逮捕までの間にも、獣そのものの暴走によって多数の人間が負傷した。酔っ払うとか薬物とか、頭を打ったとかいうレベルの話ではない。
いったい夫になにが生じたのだろう。
急いで精神病棟をおとずれたアカリにさえも、夫は頑丈な監獄越しに血まみれの牙を剥いた。大切な妻が餌かなにかに見えているのだ。格子に遮られていなければ、とっくにアカリは食い殺されていたに違いない。
そこからアカリは、医者という医者をあたって解決法を探った。だが、だれにたずねても〝原因不明の精神異常〟の一点張りだ。金でどうこうなる問題でもないらしい。
一ヶ月もしないうちに、アカリは流産した。疲労とストレスが重なりすぎたのだ。
なにもかもに絶望しきったアカリは、我慢できずに向精神薬の服用を始めた。薬の増量に比例するかのように、電話だけがうるさく鳴り続ける。
夫の傷つけた相手もしくは遺族から、求められる損害賠償の額は計り知れない。夫とアカリ自身の医療費に加え、各種ローンの支払いも滞っていた。現代医学では夫の病が特定不能なため、下りる保険額にも限りがある。
正気を失った犯罪者の妻と認定され、親類の連中もアカリの救援要請を冷たくあしらった。そのどれもが内外に〝おまえのせいだ〟という意思をはらんでいる。
なんとか……なんとか自力で稼がなければ。
だが専業主婦だったアカリは、せいぜい就けて安いパートの仕事ぐらいだ。そんなアカリが手っ取り早く儲けられる仕事として、性風俗の職を選ぶのも仕方なかった。
そして、とことんまでアカリはついていない。
初仕事で相手をすることになったのが、すさまじく不潔な中年だったからだ。名前はたしかトヨカズ、とかいったのを朧げに覚えている。
店での奉仕活動を終え、風呂場の後片付けをしながらアカリはむせび泣いた。心も体もあちこちが傷つけられて痛い。痛い、痛い、痛い。死にたい……
死のう。
あらためて風呂場に湯を張り、手首にカミソリを押し当てたそのときだった。
出るのをためらって、仕事部屋の電話は何コール鳴ったろう。しかたなく受電したアカリに、受付は次の来客があることを知らせた。なんだろう、この人気は。もしかして自分は、この業界に適性があるのか。我が魅力も捨てたものではない。
自嘲げに苦笑しつつ、アカリは第二波を引き受けた。わずかに受付が漏らした情報によれば、今度の客はちょっとした若いイケメンだという。こういう商売だから、本当かどうかは疑わしい。しかし闘病のために夫が長らく無沙汰で、アカリ自身が癒やしを求めていたのも事実だ。どうせ死ぬなら、最後のお相手ぐらいにはとびっきりのサービスをしてあげよう。
「いらっしゃいませ♪ リカです♪」
「神野明香里だな」
「な、なんであたしの本名を?」
用心深く扉を閉じ、青年は名乗った。
「俺はダムナトス」
発情した気配ひとつなく、服も脱がずに青年はベッドに腰かけた。その冷淡で悧巧な雰囲気とあいまって、たしかに色男の部類に属する。手を組み合わせて作った橋に顔を乗せたまま、ダムナトスは突拍子もなく語った。
「屍食鬼だ」
「グール?」
薄着のまま隣に座ったアカリへ、ダムナトスは説明した。
「おまえの夫は、屍食鬼と化した。魔法少女の雨堂谷寧が面白半分の実験で、伊捨星歌と戦わせるためにな。幸か不幸か、彼は生き延びて美樽山の組織の陣地を脱出した」
思わずアカリは食いついた。
「なにか知ってんの、あんた!?」
「そこそこには。この星の歴史を、俺は海側からずっと観察し続けている」
無表情に、ダムナトスは問うた。
「治したいな、夫を?」
「そりゃ、もちろんよ」
「おまえの未来と、おまえの中にいたはずの命を奪った存在に復讐したくはないか? 魔法少女と、組織に」
「したい!」
一も二もなく返事したアカリへ、ダムナトスは平板な声で提案した。
「ではおまえにも魔法少女になってもらう。俺の特別製のシャードによって」




