高崎ユウマの災難
「ぃいいいいやあああぁぁぁ――!!」
耳元で空気が轟々と唸る。体は風を切ってスピードを上げ、空中を滑走する。
ユウマの命綱は右手で握った一本のロープのみ。
彼は今、右手を挙げた状態で、57キロの体重をその腕で支えなければならない。
正直、かなり辛い。そして怖い。
視界の端でピカピカとフラッシュが光る。
眼前に白い壁が迫って、息を呑んだ瞬間、手を放してしまった。
「あっ」
足のすぐ下は砂地だ。
踵から着地して、スライディングするように数メートルすべって、尻餅どころか、背中まで砂まみれになってから、ようやく止まった。着ているスーツが砂で真っ白である。不快感がもの凄い。
「高崎さん」
カメラを持った壮年の男性が駆けてくる。
困ったように笑った。
「もう、手を離さないで、って言ったじゃないですか」
指さしたのは、今しがたユウマが使った遊具である。
本来は子供用で、数メートル開けて設置した台の間にロープを張り、ロープの間を滑車のついた乗り物で行き来する、アスレチックな遊具のはずだ。
しかし、そこにあるのは少々様相が異なる。
まず、距離が長い。差し渡し十メートルくらいか。そして、平面ではなく、斜面に設置されている。下から上へは、滑車付きのロープを引いて歩いていく必要があり、上から下へしか滑れない。子ども用なら、椅子のようなものがついているけれど、こちらは電車のつり革がついている。また、下に設置されているのは体育館の隅にあるような体操用の大きなマットだ。
すべり切ったユウマはこのマットによって止まる予定だったのに、予想以上のスピード感と迫るマットの迫力に圧されてしまった。
困り顔でカメラの操作をしていた男――写真家の百井ムカデは、表情を変えずに言った。
「高崎さん。再度お願いします」
「……肩が痛いので休憩してもいいですか。あと、手袋が要りますよ」
ユウマの右手はつり革の痕がはっきりついている。握力がすこし弱っていて、手の平はヒリヒリしていた。先程落ちたのは、手汗のせいもあるだろう。
「わかりました。用意しましょう。三十分後に再開します」
頷いた百井ムカデが、彼のワゴン車に向かう。
その背中を見ながら、ユウマはため息をついた。
百井ムカデ――奇才と名高い日本の写真家である。彼の作品は、どれもメッセージ性が高く、独特の雰囲気をかもしている。デビューは彼が二十歳のころで、有名な写真雑誌に、廃墟と中年女性の写真を送ったのが始まりである。それから百井ムカデは精力的に写真活動を続け、五十代の今では、毎年、どこかの都会で個展が開かれている。ムカデの代表作は多いが、ユウマがムカデを知ったのは、一枚の写真がきっかけだった。
暗い室内の奥に、緑の繁茂した巨大な窓が鮮やかに写る。
その手前に、一人の青年が佇む。
青年は上半身が裸で、薄い青緑色の、羽根を両手に大きく広げている。色素の薄い青白い肌、透明な瞳が、広がる蛾の――オオミズアオの羽と調和していて、人間らしさがまるでない。気品のある美しさから、昆虫好きの間で王様と呼ばれることもあるオオミズアオという蛾が、人の姿をとったとしか思えない。
そんな写真だった。
ユウマが写真を見たのは最近で、ムカデの個展ポスターに大きく載っていたのを見かけたからだ。見たとたんに記憶に焼き付いてしまい、普段は行かない写真の個展なんかにも、思わず足を運んでいた。
まさか、その個展でムカデ本人に被写体にならないかと誘われるとは、全く予想していなかった。
現在、砂まみれになったユウマは、写真家百井ムカデが奇才と言われている理由を身をもって体験していた。
日程と撮影料(これは驚くほど高額で、ユウマが思わず値下げを交渉しかけたが、ムカデが譲らなかった)、そして撮影場所を打ち合わせた。本日の早朝、駅前で合流したムカデは、にこやかで、ユウマをワゴン車に乗せてこの遊具? を設置した砂浜に連れてきた。衣装のスーツを渡して、遊具の使用方法を説明すると「では、お願いします」とカメラを構えて斜面の下に待機した。
どんどん進んでゆく状況に、頷いてついていくのが精いっぱいだったユウマは、つり革を握って、足を出発点から放した瞬間に気づいたのだ。
――ここまで、割と拒否権なかったな!?
被写体になってくれと言われて首を縦に振ったのはユウマだが、以降はほぼ口を挟む隙が無かった。自分はいったい何故ここにいるのか? 砂地に転がって雲を見上げながら、不思議で仕方ない。
太陽が少し移動し、握力が戻ったころ、ムカデが戻ってくる。
冷たいペットボトルのお茶と、茶色い革の手袋が渡された。
「大丈夫ですか。できますか」
「えっと」
心配そうにムカデが見下ろしてくる。
なんだか背筋が冷たくて、気をそらした瞬間にユウマはお茶でむせた。
ムカデが慣れた様子で背中をさすってくれた。
「あ、ありがとうございます……行きます」
「では、お願いします」
二度目の撮影。横から見るとなんてこともなさそうな傾斜が、真上の台から見下ろせばものすごく急こう配に感じるのだ。
ムカデは同じ位置にスタンバイしている。いったい、どんな写真になるのやら。ふぅ、と深呼吸してすべり始める。
ギ、と右肩がきしむ。革の手袋を通して、つり革が手のひらに食い込んだ。視界のすべてが色のついた線のようになり、あっという間にユウマはマットに衝突していた。覚悟していたほど大きな衝撃ではなかったが、当たり所が悪ければ体を痛めそうだった。
「高崎さーん」
果たして、ムカデは。
「も う いっかい お ね が い し ま す」
マットによりかかるようにして、ユウマは項垂れた。
「あの、いったい、俺をどんなふうに撮っているんですか? 繰り返しても同じような画面になるだけじゃないですか」
「全く違います。違うのですよ。うまく言えませんが、高崎さんでないと撮れないんです。あなたを見た瞬間に、撮れる、と思ったのです。……だからどうか、お願いします」
ムカデは必死に言葉を重ねた。愛でも囁くような情熱だった。頭を下げる写真家の姿に、ユウマは「はい」と答えるしかなかった。
三度目に台から見下ろしたムカデは、気迫が違った。全身からオーラが昇るようだった。
ユウマがマットに埋もれた時、近寄ってきたムカデは笑って「お疲れ様でした」と言った。上機嫌で撤収作業を開始し、遊具は組み立てた業者が解体するからとそのままにして、朝に待ち合わせた駅までユウマを送った。
「本当にありがとうございます。助かりました」
「いえ、俺はお金貰ってますし。それに貴重な体験だったと思います……」
「そうですか。高崎さんの協力がないと撮れない写真だったので、ありがとうございました」
そうですか、に淡泊さを感じて助手席からムカデを見る。
運転中だから正面を向いているのは当たり前だが、それにしても、彼と目があったことがないような気がしてきた。眼鏡をかけた写真家の瞳の色を知らない。三度目に彼がシャッターを押したフラッシュ越しに、時間が粘つくように一瞬だけ間延びした感覚があった。あれはきっとムカデの瞳から放たれた何かだと思う。
「本当にありがとうございました」
と言って、駅の駐車場でムカデはユウマをおろした。
ユウマが離れると、ワゴン車がすぐに発進する。その性急さに、写真を撮り終わったムカデの、ユウマ本人への興味の薄さが現れている気がした。
後日、約束の報酬はきっちり口座に振り込まれ、すこし筋肉痛になった程度で体調も良好。ユウマのもとにムカデから写真が送られてきた。
青空を背景につり革をもって宙を移動する青年の姿。絵としては予想通りだが、あっと小さく声が出た。
砂まみれの濃紺のスーツはヨレてくたびれ、全身から疲労がにじんでいる。それなのにつり革をしっかり握って、青年は空を移動している。滑稽でもあり、哀れでもあった。青年の顔は鬼気迫る様子で、明らかにこの写真は、現代の電車通勤の会社員を揶揄している。
映っているのは高崎ユウマに間違いない。けれど、百井ムカデの写真に写っているのは、高崎ユウマとはまるで遠くの誰かだ。顔が同じで、撮影の記憶があるけれど、家族や友人との写真に写る自分を見たときと全く違う。
これは俺じゃない、と思った瞬間、ユウマは全身から力が抜けた。
有名写真家の被写体に選ばれる、という体験は確かに滅多にないものだった。しかし、きっと、相手が悪かった。
百井ムカデが撮るのは、モデルじゃない。彼の頭の中にある作品の世界を、現実の人間を使用して写真に収めているのだ。
百井ムカデが悪いとは思わない。けれど、ムカデの頭の中の、たった一枚の写真のイメージに、合致してしまったらしい事は、まるで天災のようだった。
あの写真家が、二度と「高崎ユウマが被写体にぴったりな写真」を思いつきませんように、と、ユウマは心から祈りをささげた。
お題を曲解して如何に恋愛要素を削るかに力を注ぎました。
百足さんは以前に投稿した「写真家と向日葵」にも出ているキャラクターで、そちらの被写体はオオミズアオの写真のひとです。
百足さんのアクがつよいので、写真関係のお題を見ると、真っ先に「僕の出番ですね」と頭の中で彼がにっこり笑います。新しい写真が撮れるのでうれしいんだと思いますが、被写体のひとは毎回ひどい目に遭います。かわいそう。