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人を喚び出した妖崎が、ずっとクライアントからの電話に係っている為に、私は奴の弁護士事務所で一人放っておかれていた。所在なさに窓まで寄ってみ、風景を眺めようとし始める。しかし、夕刻に差し掛かった外は既に光量に乏しく、窓に最も著く写り込んでいるのは私の顔であった。七十歳の、女の顔である。前月最高裁を定年退官して、花束の持ち帰りと始末が難渋したのだから、間違い無い。だが、未だ皺一つ刻まず、洋梨の断面の瑞々しさを誇っている顔貌は、樹人を含めた殆どの人類から見て余りに若過ぎている。もしも竜処女のコミュニティやイデオロギーが存在していれば、私も私の容貌を自然に感ずる精神を涵養出来たのだろうが、一人一種とでも言うべき竜処女にそんなものが有った筈もなく、便宜上人間と共に育まれた私は、この若さを、何か取り外すことの出来ない仮面であるようにずっと感じ続けていた。硝子に映った、顔を良く見る。手を、良く見る。人間の肌や顔貌と、何ら変わらない。ただ、只管に若過ぎるということを除けば。
「いやぁ、お待たせを。」
振り返ると、受話器を置いていた妖崎が、その蝶人らしからぬ男らしく張った顎を撫でながら近付いてきていた。青金石の様な色の肌をそうやって頻りに摩擦する癖が有るので、いつか研磨されて耀き始めぬだろうか、という揶揄いをぶつけてやろうと思って、私はずっとし損ねている。
「そんなに焦って窓の眺めに見惚れなくとも、大丈夫ですよ。竜石堂先生もウチのイソ弁になれば、嫌というほどここに籠もりきりになる日々がすぐに来るでしょうから。」
如何にも、妖崎らしい軽率だと思った。私は風景など見ていなかったし、それに、私が実際に眺めていたものは、五十年以上代わり映えのしていない、それこそ本当に見飽きたものだったのだから。母親の方の妖崎、つまりかつて私の同僚として最高裁判事として職をこなしていた、今は亡き妖崎元判事とは、どうも似ても似つかない男だった。いや、所属小法廷が違ったから彼女とそこまで親しい訳でもなかったが、しかしそれにしても、こんな軽薄の権化のような倅とは何もかも異なっていたに違いない。
ところで、
「妖崎君、その、『イソ弁』と言う言葉は、もしかして、」
「ああ、余り御存知ないですか? 『居候の弁護士』、つまり駆け出しで事務所を持たず、弟子に取られている未熟な弁護士のことですね。いえ、勿論竜石堂先生の場合は法曹人として僕なんか比較にもならないのですから、弁護士ならではの諸手続や俗習をお教えする位に留まる訳ですが。……例えば、『イソ弁』などという、下らない言葉について御教授するですとか。」
そう語りながら、妖崎は彼の執務机に置かれた袖珍版英和辞典を漫ろに撫でたが、置物となって久しいらしく、天から埃が転げ落ちた。
私は、何となく腕を組みながら、
「成る程な。弁護士諸君は、そうやって教育される訳か。」
「まず五年くらいそういう丁稚の身分で過ごすのが一般的なんですが、勿論貴女の場合は具合が違うのですから、そんな長い期間も要らないでしょう。その後は、僕のことを信頼して頂ければ、一丁前の弁護士として一緒に働いて欲しいですし、そうならなければ、ウチを卒業してもらって独立していただく、と。」
妖崎は、椅子を引き出して掛けてしまってから、
「今後のことを考えたせいで、ふと思ったんですが、竜石堂先生って後何年くらい生きるんですか? つまり、竜処女の生態についての質問ですけど、」
私も、空き席を適当に占領しつつ、
「それが、分からんのだよな。老いはしない、つまり誤嚥性肺炎や痴呆を起こしたりはしないが、しかし結局生きている以上腫瘍や心臓の故障を起こす可能性は普通に有る訳で。二百年近く生きた奴も居るらしいが、私よりもずっと若く病に死んだ者も居る。」
「成る程、……そう聞いてみると、案外老いというのは便利な現象なのかもしれませんね。そんな御様子だと、人生計画が立て辛くてしょうがないでしょうから。」
「私のような、子を得も育みもしない存在に、世間並みの計画が必要なのかは疑問だがなぁ。まぁとにかく、向こう五年十年の内は生き延びる可能性の方がずっと高いだろう。暫くは宜しく頼むよ、妖崎君。」
「ええ、来週からお願いします。……ところで先生、その、僕の名前の呼び方なんですが、」
「……うん?」
「ああ、いえ、」妖崎は、寛然と椅子へ背を預けつつ、「勿論僕個人としてはそんな感じで宜しいのですが、しかし今後、『イソ弁』『ボス弁』の関係となって、しかも片割れの貴女の容姿がそんな乙女然としていると、周囲には奇妙に聞こえてしまうと思うんですよ。だからって出先で一々説明するも面倒なので、人間の女性が蝶人の弁護士の弟子になっているという関係を、普段の表向きには作っておいた方が便利と思うんですよね。なので、君付け呼ばわりはちょっと不都合かな、と。」
「ふむ、」
妖崎を目上において言葉を発し続ける自分を想像してみたが、寒気が走ったし、三日目くらいで胃に穴が空きそうだ。折角老いぬ身なのだから、消化管は大事にせねばならない。
すると、手打ちな所は、
「『妖崎先生』。……これで、いいかな。」
「悪くない、と思いますよ。実際医官や教育官は、上下関係なく身内を『先生』と呼び合うらしいですから、同じ様なものと思えば丁度良いでしょう。」
妖崎の企みを聞いて、私は一つ気が付かされていた。つまり、その、私が小娘に見えることを前提としていた謀が、私の立場の変転を再認識させたのだ。刑事系の裁判官として粛々と、そして従順に、職責をまっとうし続け、遂には最高裁判事まで昇り詰めた私が、今や、司法試験の合格位しか身の保証を持たぬ女となっていたのである。法機関の隅々まで、つまり窮極的には国家の隅々まで、血液のように影響と滋養を齎す絶対の判例を下し、そして憲法の番人として忌まわしきを跳ね退けて来た私が、少し前までそうしていた私が、今や一人の小娘となったのだ。無論、来歴を名乗れば慄えてくれる者も有ろうが、歴代の最高裁判事の顔を憶えている者など市井には殆ど居ない訳で、積極的に身を明かさぬ限り、私は社会的な迫力を何も纏わぬことになるのだろう。象牙の塔を登り詰めた挙句に、その尖端から絞り出されての転落。
この変転については、しかし実は、楽しみの方が大きかった。私は種々のものを失ったのだろうが、その代わりにこれからは、世俗的な、多くのものを直截に見知ることが出来るようになるだろう。同じ第三小法廷で審理を行って来た、弁護士上がりの鬼柳や学者上がりの人見が時折漂わせてきた、私の知らない、人類の生活の臭いを直に感じることが出来るだろう。飯の炊き上がった電子釜の臭い、換えられる前の襁褓の臭い、三角コーナーで野菜の腐った臭い、或いは学童が膝を擦り剝いた時の、泥と血と汗の混ざった臭い、そしてそれを消毒してやる保健婦の纏う謹厳な沃素の臭い。そう謂ったものに始まる、人類の生活と謂うものの実感を、私は得ることが出来るようになるのだろう。
ふと、また窓へ視線をやった。時刻が更に深まったので、ますます内側の景色がはっきりと写り込むようになっている。泛かんでいる、染みの一つも無い私の顔には、全く死の徴候など及んでいなかった。ならば、やはり、私はまだまだ学び続けねばならぬだろう。新たな世界を見知ることによって得られる、謙虚と衝撃で、永く生き過ぎる精神の放埒を戒めていかねばならないだろう。
突然、外の街灯が灯り、私の虚像の額に輝点を投じた。




