序
久方ぶりに使用された大法廷の傍聴席は、期待された通りに満席であった。仰ぐ者に、牧場の家畜を連れ去る未確認飛行物体を思わせる、余りに壮大な天窓が、その豊麗な光量を以て、今日も法廷内の種々な意匠の存在を危うく消し飛ばしかけている。奥まって高く居並ぶ十五人の最高裁判事達の殆どは、その放恣な光の到達を免れており、薄暗い展示台へ鹿爪らしく並べられた胸像のようだ。しかし、天窓の刳り方の関係で、長官や第二席三席、つまり中央の三人の辺りにだけは陽光が辛うじて及んでおり、その大時代な法服を纏った居住まいに明晰が許されている。当代の長官は男子かつ人間である為、その老衰や的皪たる兀頭がただ残酷に晒されていたが、対して、自然に最年長である第二席判事は、いかにも竜処女らしく、未だ瑞々しい美しさを誇っていた。しかも、只の最年長ではなく、彼女は来月にも七十歳を迎えるのである。他種族の寿命の定規に合わせられた結果、内面はともかく、見た目としては一切の衰えを読み取らせぬまま、無事に定年退官となる運びであった。人間のそれと見分けのつかない彼女の顔に漂っている美は、刃の纏うものと同種であり、研ぎ澄まされた眦や、とても綻びそうに見えない口角に、悪しきを断たんとする鋭利な威が漂っている。
定刻となり、撮影用に凍りついていた判事らも理窟の上では自由となったが、その解放を謳歌する者は一人も居らず、最小限に書類を手繰る長官を除いては、ただ、胸像の微動だにせぬ礼儀正しさを維持し続けていた。
「判決を言い渡します。主文、本上告を棄却する。」
傍聴席からは大きな落胆の雰囲気が洩れてきたが、原告弁護団の絶望はそこまででもなかった。たとえ係争上は棄却と言う門前払いであろうとも、何かしらの法的判断が下されることは、まだここから充分期待出来る為である。つまり、「どうやら残念ながら我々の依頼主には何ら利益が無さそうだが、何か世の中がひっくり返るようなとんでもないことを(何せ大法廷回付だ!)、最高裁の意見として述べてくれるのではないか。……それも、今後国家に永久に残る爪痕として!」と、弁護士の彼らはその能力で尤もらしく期待したのだ。
だが、その期待も、長官が嗄れた声で判決理由を読み上げていくにつれて潰えていった。そもそも本事件は、行政府への賠償に託つけて、同性婚の制度が本国において整備されていないことの合憲・違憲の判断を求めると言う、古来良く行われてきた政府への「挑戦」の一種であったが、このような場合の悲劇的結末の例に漏れず、「憲法で想定していないのだから、これを用意しないことは特に違憲とならない。」という消極的な弁が、つらつらと判決理由要旨として読み上げられたのである。当然彼らも、法曹人として覚悟或いは想定していた範疇であろうが、だからと言って面白い筈もなく、原告団は憤懣やる方ない表情を作り始めていた。
しかし、
「竜石堂裁判官から、意見が有ります。」
長官がこの言葉を発し、手許の文書を置いて口を閉じると、むっつりしていた原告団は互いに見合わせつつ小声で騒つきはじめた。対する被告側、つまり国側の代理人団もどこか浮き足立っている。
まさか、と思う彼らの畏ろしい予感は、長官に隣る、見た目麗しい竜処女が朗々と語り始めたことで的中となった。長官以外の判事が、大法廷で発言するだと?
竜石堂の、若々しく、しかし同時に太い声は、法廷内の隅々まで伸びやかに響いた。
「民法七七〇条により『配偶者に不貞な行為があった』場合に離婚の訴えを提起出来ることや、また多くの民事事件の判例や社会通念に照らしても明らかなように、婚姻は当事者両者に厳格な貞操義務が課されるものであり、ならばそれは嫡出子を儲け、育むことや、その為の性行為を当該者間のみで為すことを社会的に宣言することによって、それらの行為に対する障碍を社会的に排除することを、基本的な目的の一つとしていると考えられる。仮に、体質、疾病その他の事情により事実上嫡出子を得ることが困難と思われる場合でも、互いが生存して遺伝子が存在している以上、夫婦が男女間であるならば、実際に嫡出子を授かる可能性は、現代や将来の科学技術をもってすれば、常にゼロではない訳で、またその困難性を客観的かつ画一的に評価することも、婚姻に関する諸事務を執行する行政機関においては事実上出来ない訳であり、よってこの様な場合は婚姻を認めるのが相当と思われ、現在も実際に認められている。
然るに、二者が同性である場合、少なくとも現時点の医術や技術では実子を得ることは絶対に不可能なのであるから、同性間の婚姻が認められないことは、本国における婚姻制度の理念に照らして不自然なものではなく、よって、原告等の主張は必ずしも認められるものではなく、本上告は棄却されるべきである。」
言葉が進むにつれて、聴衆の醸す幻滅の色は濃くなっていった。そんな、道のりが多少異なるだけで、結局本判決と変わらぬ、――いや寧ろ、詐欺的な期待を伴った分だけ余計に下らぬことを、貴様はわざわざ慣例を破って述べ上げるのか、と。
敵意を含んだ空気がその顔許まで及んでいるのは明らかであるのに、竜石堂は、一旦息を呑むような間を取ってから、露と動ぜずに高みから朗読を再開した。そして、この瞬間を明確な区切りとして、法廷の不穏な雰囲気は、何か感動的なものへみるみる塗り変わって行ったのである。
「但し、原告らの述べるように、婚姻によって得られる社会的立場の確認や法的な立場の獲得が叶わないことによって、互いを愛する二者の同性愛者の人類権が、婚姻可能な者らと比して酷く制限される場合が有るのは明らかであり、また実際に妥協策として養子縁組を用いるなどの手法を曲解的に強いられる者も少なくないのであり、このような現状が、性別間の公平を保証する憲法第十四条に反することは論を俟たず、決して許容されるべきものではない。これらから、同性愛者らに対しても、二者の情愛を伴う関係性を保証しつつ、血縁者に相当するような一定の権利や立場を認める、婚姻に準ずる制度が準備される必要が有ることは明らかである。よって、名称は『婚姻』に限られずとも、その様な法制度が速やかに整えられることが、社会正義及び本国憲法の理念に照らして強く望まれる。」
しんとなった。多数意見にならなかったとは言え、原告団に希望を与え、そして立法府を叱り飛ばすような言葉が、永くに渡った闘争の末にとうとう与えられたのである。
十五人の最高裁判事の中で、これを言えるのは彼女だけであったのだろう。彼女は、竜処女であり、つまり竜の父と人間の母の合いの子であり、言わば気高く美しい騾馬であった。平たく言えば、絶対の石女が、その立場からのみ可能だった忌憚の排除を、その判事生活の最後に、正しく恣に為したのである。




