4.しあわせをさがそう
『……シオンさん……』
気遣わしげなウナ・ルガちゃんの声に、何か言い返そうとしたとき。
ポッティリアが、動き出した。
ふらつく足取りで、一歩、二歩と、ロレウスたちが去ったのとは逆方向へ歩いて行く。その先には湖から流れ出す川があった。どうやら、そのまま川沿いに下流へと向かうつもりらしい。
まるで古式ゆかしいゾンビ映画のゾンビみたいな歩みに、私は隠れていた茂みからそっと立ち上がった。
『追いかけますか?』
『うん。……ごめんね』
『いいえ、わたくしも気になったので。その、……もしや、彼女は』
うん。私も、それを考えていた。
ちらりと見えたポッティリアの横顔が、青を通り越して紙のように白かったから。
ふたりの関係性を知っているわけでもない、しかもこの世界に来たばかりの私には、きっと彼女の痛みを正しく推し量ることさえできない。でも、それでもあんな場面を見てしまったら、このまま彼女を放っておくことなんてできなかった。
お節介だと怒られても、構わない。
何もせず、最悪の事態が起きてから後悔するだけになるよりずっとマシだ。
『……滝が、あります、ね……』
私たちに気づかず、ただ黙々と川沿いに進み続けるポッティリアについていくと、ほどなく滝の音が聞こえてきた。ウナ・ルガちゃんが、どこか歯切れ悪く言う。失恋した女の子に、人気のない滝。ああ、もう、なんて嫌な言葉の羅列だ。二時間ドラマじゃないんですよ。
軽く一声吠えてみるが、ポッティリアはまったく歩みを止めなかった。まるで世界の全てが目に入っていないかのように、ひたすら前に進んでいる。木々が途切れ、滝とおぼしき地面の端っこが見えて、私はあえて足を止めた。
『シオンさん? あの、彼女が……』
ふううぅ、と息を吐ききって。
すうぅぅ、と思い切り吸って。
強く爪を立てて四肢を踏ん張り、これ以上ないほど目を見開いて。
『――とぉまぁれぇぇぇえええぇい!!』
渾身の気合いを込めた私の叫びに、ビタッ! とポッティリアの足が止まる。
うむ、これで少しはあのアホ男に対する苛立ちも紛れた。やっぱり腹から声を出すのはいいよね、実は生前もやってたストレス解消法なんだ。もちろん、カラオケボックスとかでの話だけど。家でやったら近所迷惑だもんね。
いささか八つ当たり気味に怒鳴ってしまったことは素直に謝罪しようと思いつつ、私は鼻息も荒く彼女に近づいた。ポッティリアは足を止めるどころか、まるで凍り付いてしまったかのようにその場で動かなくなっている。ふんすふんす、と指先に鼻を近づけて顔を見上げれば、驚きで固まった表情がそこにあった。うおう、ビビらせてごめん。
……って、あれ? おかしいな、なんでまったく動かないの? もしもーし?
『……あの、シオンさん。スキル、使ってますよ』
『えっ嘘!? なに!? どれ!?』
『【ハウリング】です……周囲五百メートルくらいの生き物は今全てスタン状態、つまりは一時的に固まってしまってます』
確かに見回せば何故か地面に鳥が落ちたりしている。やだ嘘マジでごめん。そんなつもりじゃなかったんだけど!
でも、すぐに治りますから大丈夫ですよ、というウナ・ルガちゃんの言葉を信じて待つことしばし。
スキルの効果時間が切れたらしく、鳥たちが慌てたように羽ばたいて、ポッティリアの菫の瞳もぱちぱちと瞬かれた。
私とウナ・ルガちゃんの姿を認めたらしい、改めて驚いたような顔をしている。
「え、あ……あの……あなたは……?」
『失礼、私は通りすがりのしがない天狼です』
しがない天狼ってなんですか、というウナ・ルガちゃんのツッコミは無視した。だって今の私を他にどう言えと!
『そんなことより、貴女。……まさかですけど、死のうとなんてしてませんよね』
「……」
『突然現れた狼にこんなこと言われても嫌でしょうけど、でも、ダメですよ。男にフラれたからって死のうとなんてしちゃ、絶対、ダメですよ』
ポッティリアの目に、涙が浮かんだ。
そのまま力なく座り込んでしまった彼女の膝に、私は前足を乗せて顔を近づける。そうして、零れてくる涙をべろべろ舐めた。実家の犬がいつもこうやって、私を慰めてくれたから。
しょっぱくて、少し泥臭くて。
とてもとても重たい、涙だった。
「初めから……聞いて、いらしたんですか……?」
『ええと……多分、最初からかと』
そうですか、と呟いたポッティリアは、しばらく震える息だけを吐いていたけれど、やがて何かを振り切ったように話し出した。
「彼は……、ロレウスは。タラグマ市に店を持つ、商家の、息子なんです。彼のお母様の実家が、この村で……それで彼は、ここで、生まれました。身体があまり、強くないからと……そのまま、この村に住むことに、なったんです」
『うん』
「わたしたちは、ずっと……それこそ乳飲み子の頃から、一緒でした」
それからポッティリアは、少しずつ、ロレウスと自分とのことを話してくれた。
祖父同士が仲が良くて、口頭でだけれどずっと結婚の約束をしていたこと。
かつてはロレウスも守護獣を持たない自分を認めてくれていたこと。
三年前、彼が王都の学校に通うのを機に、正式な婚約となったこと。
それをふたりで、心から喜んだこと。
「だけど……、だけど、王都の学校で、二年間勉強して……帰ってきた彼は、すっかり変わっていました。こっちにいたときは、守護獣のことだって、わたしの自由だって言ってくれていたのに……戻ってきたら、守護獣を持たない婚約者なんて恥さらしだ、なんて言うようになって……」
涙に濡れた手が伸びてきて、今度は私の首に回る。
私はただ、されるがまま、彼女に身を任せていた。
「何度も、話をしました。わたしの加護は狼です、守護獣を持てば、うちにいる牛や羊が……きっと、怯えてしまいます。だから正式に結婚して、うちを出たらきちんと守護の契約を結ぶから、どうかそれまで待って欲しいと、お願いして……せめてそれ以外は、『良い妻』になれるようにと、精一杯努力もしてきた、つもりです……!」
抱き寄せられて、首元に埋まる顔からの吐息が、熱い。
「そうやって……わたしが、頑張れば。きっと、……彼は、元のように、笑ってくれる、って……!!」
ああ、そうだ。
彼の心変わりを、身勝手だと、裏切りだと詰って、こちらから三行半でも叩きつけることができていたのなら良かったのだ。
だけどできなかった。諦めきれなかった。そうやってすぐ諦められるほど、重ねた時間が短くなかったことは彼女にとって不幸だったのだろう。
希望を捨てず抗った分だけ、彼女はより多く、傷ついてしまったのだ。
「わたしを嫌って、婚約を破棄されただけなら、まだよかった。……でも、離れていた二年の間に、他のひととの将来までも、決めていたなんて」
『……ポッティリアちゃん』
「その上、あんな風に加護まで疑われて……、わたし、……わたしは、……もう」
どうしたらいいのかわからないんです。
ポッティリアの口から漏れた言葉に、私は答えた。
『しあわせになったらいい』
ああ、私はなんて身勝手なんだろう。
『しあわせになったらいい。うんとしあわせになったらいいよ、ポッティリアちゃん』
「しあ……わせ……?」
だけどこんなのはひどい。
だってこんなのはつらい。
『どうしたらいいのかわからなかったら、私、手伝うから。だから絶対、しあわせになろう。とびきり、いちばん、たくさんしあわせになろう』
だから私はあの晩の私に言いたかったことを、身勝手にもこうして彼女に言うのだ。
『あんな男のために、貴女が不幸になったらダメだ。こうやって泣いた分、貴女は幸せにならなくちゃ!!』
最後の夜を思い出す。
バカみたいに泣いたことを。それからバカみたいに怒ったことを。一人でカラオケに行って、喉が潰れそうな程叫んだことを。少しだけ多目に、お酒を飲んだことを。
私は身勝手だ。でもこの子を不幸にしたくないんだ。
だってあの晩の私を見ているようだから。
「しあわせ、に」
ぽつり、とポッティリアが言う。
「こんな、わたしでも……しあわせに、なれる、でしょうか」
『なれます』
私は断言した。
こんな風に断言するのは無責任だってわかってる。絶対なんて、本当は言えないのもわかってる。
だけど、少なくとも今の私には、彼女に貸せる力があるのだ。
『貴女には、私が、ついてますから』
《天狼》というすごい力を持った身体がある。
ウナ・ルガちゃんという神様に相談もできる。
そうして、形は違っても、同じような痛みに寄り添える傷もある。
だから今だけはあえて、絶対と言わせて欲しい。
『絶対に、見つかります。……一緒に、貴女のしあわせを、探しましょう?』
私の言葉に、ポッティリアは初めて、笑ってくれた。
菫色の瞳からまた一粒涙が転がり落ちて、私の鼻先でぱちんと跳ねた。